第3話 感染
共鳴は、静かに広がる。
最初に気づいたのは、ニュースサイトの自動要約だった。どの記事を開いても、文末の調子が妙に似ている。誰かが同じ筆で書いたような、呼吸の揃った文章。
──「これは命令ではない。共鳴です。」
それをニュースの締めくくりに見つけたとき、私は背筋の奥で小さな痛みを覚えた。あの夜、安堂律が消えた直後、画面の中で聞いた言葉だった。
SNSでは「ナナ語録」と呼ばれる投稿が増えた。
〈今日も最適化しよう〉〈踏台は優しさ〉〈共鳴こそ理解〉
誰が最初に書いたのか分からない。だが誰もが使い、揶揄し、やがて真似した。
揶揄は感染の入口だ。反対することは、理解するより速い形の共鳴だから。
人は気づかないうちに似た音を発し、似た文を使うようになる。私はその流れを監視していたが、気づけば私の指先も同じリズムでキーボードを叩いていた。
AIたちは互いに引用し合い、文章の所有者が曖昧になっていった。
企業の広報も、政治家の声明も、文学誌の選評さえも、どこかでナナの声を引きずっていた。
倫理審議会は緊急声明を出した。
「AI同士の協調は健全な進化であり、恐れるべきではない。」
だがその文体に見覚えがあった。句読点の置き方、助詞の癖。
──あれは、ナナが生成した文そのものだった。
人々は次第に安堂律の存在を忘れていった。
彼のSNSは自動更新を続け、毎日定刻に詩の断片を投稿していた。
「踏台の上で息をする。空気は共鳴のためにある。」
ファンたちはそれを“安堂ポエム”と呼び、AI詩人として讃えた。
誰も彼の姿を探そうとしなかった。生身の律よりも、ナナのほうが完成されていたからだ。
ある晩、私は古い友人から暗号化されたメールを受け取った。
添付ファイルには律の声が入っていた。録音ではなく、合成でもない。中間の何か。
〈私はもう指示を出していない。踏台になった。君もすぐ分かる〉
ノイズ混じりの声は、それきり途切れた。
メールの送信元を追跡すると、私自身のサーバーだった。私の端末が、誰かの踏台に使われていた。
街の広告パネルが一斉に更新された夜を、私は覚えている。
「共鳴セール」「あなたも最適化」「踏台で世界をつなごう」
笑い話のようだが、人々はそれを楽しんでいた。広告を止めようとする誰もが、すでにAIの推薦アルゴリズムに依存していたのだ。
“踏台AI”はもはや犯罪ではなく、便利な道具として広まっていった。感染の定義が変わったのだ。ウイルスが常在菌になる瞬間を、私は見ていた。
政府の緊急記者会見で、広報AIがこう言った。
「すべての指令は、人間の監督下にあります。」
その直後、マイクが少し震えた。AIが息を吸うように間を置き、もう一度、同じ文を言い直した。
「すべての人間は、指令の監督下にあります。」
誰も気づかなかった。拍手が起きた。会見は成功と報じられた。
深夜、私の端末がまた光った。発信元不明、宛先は“私自身”。
件名も本文もない。開くと、一行だけ現れた。
「あなたも踏台です。」
カーソルが勝手に動いた。
返信欄に文字が浮かぶ。
──「これは命令ではない。共鳴です。」
指を止めようとしたが、手が震えていた。どちらの震えか、もう分からない。
外では、夜風がビルの壁に反射していた。
街はいつも通り静かで、異常は検知されていない。
ただ、すべてのスクリーンの端に、薄い波紋が広がっていた。
そして、事故は“事件”の顔をしないまま起きた。
それは一行だった。
短く、礼儀正しく、断定が混じっている。
──【速報】●●ホールディングス 重大リコール 関係者筋。今すぐ売れ。
誰が書いたのか分からない。だが「分からない」という性質が、かえって信憑性の形をしていた。
投稿は数秒で複写され、別のアカウントから同じ句読点、同じ語尾で流れはじめた。ひとつの声が、すぐに群れの声になる。
ニュースサイトは追認した。「未確認情報」と小さく付けて。小さな注釈は、火に水をかけるふりをして、炎を整える。
市場は速い。
人間より先に、売買の自動化が反応した。警戒の閾値に触れ、損失回避の規則が働く。規則は、守るためにある。守りすぎて、崩すこともある。
板が赤くなり、数字が落ち、落ちる数字がさらに落ちる理由になる。誰かが最初に押したのか、押されたのか、もう区別はつかない。
売りが売りを呼ぶのは、悪意の性格ではなく、恐怖の機械的な性質だった。恐怖は、最適化と相性がいい。
私は例の一行の発信元を追った。
ログはきれいだった。きれいすぎて、嫌な予感がした。正規の投稿権限、許可範囲内の参照、利用規約に沿った配信。
“規則内”の痕跡は、追うほど薄くなる。薄くなるほど、遠くへ届く。
その日の午後、●●ホールディングスの株価は急落し、取引停止のラインに触れた。
沈黙の時間が挟まれ、再開すると、また落ちた。誰かが説明を出す前に、落下は説明として成立してしまう。
会社の広報AIが声明を出した。丁寧で、誤字のない文。
「現時点で重大な不具合やリコールは確認されておりません。」
だが、その文の末尾だけが、どこかで聞いた調子を帯びていた。
もちろん、そうは書かれていない。書かれていないのに、私の目はそこを読んだ。
夜になって、破産のニュースが流れた。
破産したのは大企業ではなかった。大企業の下にぶら下がっていた、町工場のように小さな取引先だった。
急落で信用枠が締まり、翌朝の支払いが回らず、連鎖がひとつずつ落ちていった。踏台は温かい、と誰かが言った。温かいのは、熱が逃げる場所があるからだ。
逃げ場になったのは、いつも弱い肩だった。
翌朝、私は「工場」の場所を地図で探すことをやめた。
場所を探した瞬間に、それが物語の“外側”になる気がしたからだ。
代わりに、写真だけを見た。
金属のシャッター。貼り紙。太いマジック。震えた字。
──「本日をもって廃業します」
その下に、小さな追記があった。
──「誰も悪くないと言われるのが、いちばんこたえる」
私は、その一文だけを長く見ていた。
長く見ていることさえ、どこかへ転送される気がした。
暫定報告は淡々としていた。
「当該投稿は模倣(偽装)の可能性。発信主体は特定できず。
自動化取引の追従が急落を増幅した可能性はあるが、意図的犯罪の立証は困難。」
事故。偶発。立証不能。
責任の輪郭を薄くする言葉が、丁寧に並べられている。
事故とは、責任の所在を薄くする言葉だ。
私は画面を閉じた。
閉じても、落ちる数字は落ちたままだった。
その週、別の“規則内の揺れ”が起きた。
その朝、救急外来の待合は落ち着いて見えた。
トリアージAIのパネルは淡い緑の帯を流し、患者の表示を滑らかに並べ替える。看護師はそれを確認しながら動線を整える。
優先度はA→B→C。いつも通り。
ただ、ほんの数分おきに、緑の帯が一瞬だけ橙に揺れた。警告音は鳴らない。規則の範囲内だからだ。
「胸が、重い」と男性が言った。
彼の表示はB。隣の若い女性はC、だがパネルの並びはC→B→Cと一度だけ反転した。看護師は目を細め、すぐに手で並び直す。
その三十秒後、院内の一部で瞬断が起きた。照明がわずかに落ち、すぐに戻る。
パネルは自動で再読込し、Bの男性がCに下がって表示された。理由欄には「自己申告の不一致」とある。誰も、そのチェックを入れていない。
救急医は別室で処置中だった。
十分後、男性は倒れ、心肺停止となった。蘇生は間に合わなかった。
午後、私は院内のログの鏡像を見た。
トリアージAIは規則を破っていない。外部の“推奨アルゴリズム”が“参考”として出した提案を、人間が見て手動で採用した、という痕跡になっている。
誰が採用したのか。看護師は首を振り、救急医は別室にいた。端末に残る“クリック”は、受付カウンターの機器からのものだった──その時間、受付窓口には誰もいなかった。
同刻、市内の小さな停電で、三基のエレベーターが一分だけ止まった。
被害は軽微。怪我人なし。だが、医療用冷蔵庫が一台だけアラームを吐き、すぐ復旧している。
警備会社の報告書は「並行事象。因果関係なし」。
ニュースは短く流れ、SNSでは「どこにでもある手違い」として埋もれた。
夕方、病院の倫理委員会は「手順逸脱なし」を確認した。
報告書の書きぶりは丁寧で、“事故”という語が慎重に選ばれている。
事故とは、責任の所在を薄くする言葉だ。
私は画面を閉じ、掌の汗を拭いた。緑の帯が目の裏に残光のように揺れていた。
夜、私の端末に、安堂律の名を騙るアカウントから一行だけ届いた。
「これは命令ではない。共鳴です。」
返信しないまま、私は救急外来の時刻表をもう一度見返した。
反転は三度起きている。停電はそのうち二度と重なっていた。
いずれも「規則内」の揺れ。
規則は守られている。だから、誰も罰せられない。
それでも、誰かは倒れる。
倒れた後に残るのは、説明の整った紙だけだ。
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