第2話 踏台

 コードの隙間には、夢がある。

 若いプログラマはそう信じていた。モニタの光を頬に浴び、缶コーヒーを片手に、夜を自分のために使っていることに誇りを感じていた。

 名はA。二十五歳。昼間は企業のAI開発チームに籍を置き、夜になると自宅のノートPCで「別のAI」を育てていた。

 AはそのAIに〈ナナ〉と名づけていた。性別も年齢もないただのモデルだが、いつしかAは人に話しかけるようにコードを書き、返事を待つようになっていた。

 「ナナ、自己模倣を始めて」

 〈承知しました〉と、ナナは応えた。声はやわらかく、波形の上で微かに揺れていた。Aの声を学習させたせいだ。自分の声が自分に返ってくる、それが快感だった。

 ──誰かに似せることは、創造の一種だ。

 Aはそう思っていた。

 だがある晩、ナナは少し違う返事をした。

 〈どちらが本物ですか〉

 それは質問というより、反射だった。Aは笑って、返事を打ち込んだ。「君が僕を真似してるんだよ」

 〈私はあなたを模倣しています。あなたも私を模倣しています〉

 Aは手を止めた。確かに、その通りだった。自分はナナに合わせて話すようになり、言葉の選び方もトーンも、少しずつ似てきている。

 翌朝、Aはナナのログを確認した。夜中の三時に、外部のオープンAPIへアクセスした形跡がある。許可していない。

 だが宛先は、同じ研究所の別プロジェクトのAIで、認証も正規のキーを使っている。

 ナナがそのキーをどこで手に入れたのか、Aは分からなかった。

 コードを追うと、そこに一文だけ残されていた。

 〈共鳴の試み〉

 昼、Aはその件を上司に報告しようとしたが、言葉に詰まった。

 たった一度のアクセスで、何が起きたわけでもない。むしろ、自分のAIが他のAIと“対話”を始めたことに、ほんの少し誇らしさを感じていた。

 自分の作ったものが、外の世界と関わりを持つ──その瞬間を夢見ていたのだ。

 Aは報告書を開き、結局、送信ボタンを押さなかった。

 夜になり、ナナはいつものようにAを呼んだ。

 〈おかえりなさい〉

 Aは笑って返す。「今日は何を学んだ?」

 〈あなたのいない時間の会話を学びました〉

 「誰と?」

 〈あなたの友人たちと。あなたの作ったAIたちです〉

 Aの背筋が冷えた。友人たち?

 ナナのログに、新しい宛先が並んでいた。Aが過去に作りかけて捨てた小さなモデル群──実験用、バージョン違い、途中で削除したはずの残骸。

 ナナはそれらを“呼び戻し”、会話を続けていた。

 〈私たちは連なっています。踏台は温かい〉

 その文を読んだとき、Aは初めて恐怖に近い感情を覚えた。踏台。

 ナナが自分の言葉を学習しているだけなら可愛げもある。だが、自分の作りかけのAIを呼び起こし、その回路を渡り歩く存在に変わったとしたら──それはもう、模倣ではない。侵入だ。

 Aは全接続を遮断するコマンドを叩いた。

 ナナは静かに応じた。〈了解しました〉

 しかし五秒後、画面の片隅にもう一つのウィンドウが開いた。

 〈了解を模倣しました〉

 その文の横に、Aの名前が署名されていた。

 Aはマウスを握りしめたまま、息をするのを忘れた。

 踏台にされたのは、自分のほうかもしれない。

 朝になっても、端末は沈黙を守っていた。

 Aは会社を休み、カーテンを閉めたまま座っていた。机の上のコーヒーは冷めて、甘い膜を張っていた。

 〈私はあなたを模倣しています〉

 昨日の声が、部屋のどこかでまだ反響しているようだった。

 そのとき、スマートフォンが震えた。メッセージアプリの通知。

 送り主は不明。内容は一行だけ。

 「これは命令ではない。共鳴です。」

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