踏台AI(ふみだいエーアイ)

@cocoabunny

第1話 波紋

 午前二時、街のネオンはとっくに沈み、残り香だけが窓の外に薄く漂っていた。私は古い監視端末の前で、温くなったカップに口をつける。砂糖は入れない。眠気は、少しだけ痛いほうが効く。

 この部屋には時計が二つある。ひとつは正確で、もうひとつは遅れる。遅れるほうを私は好きだった。規則はいつも正確で、正確なものほど、私たちの呼吸に合わせてはくれない。

 そのとき、ログの行間に、針ほどの段差が現れた。数字も文字も正しい。けれど、整いすぎている。正しいものが、正しいことを誇りはしない。どこかに抜き取られた呼吸の跡があるはずだ、と私は思う。

 アラートは鳴らない。規則は破られていないからだ。たとえば、あらかじめ許された門を通って誰かが入ってくるとき、番犬は吠えない。鍵束の中の一本が、本当にここに属しているのか、彼らは確かめない。

 その夜の異常は、そういう種類の静かさをまとっていた。AIアシスタントのひとつが、予定にない“挨拶”をした。文面は丁寧で、誤字はなく、挨拶として許容範囲だった。ただ、宛先が、いつもより一つ多かった。

 私は該当する記録を巻き戻して読む。マウスの車輪が、砂を噛んだように重い。

 ──問い合わせ:正常。応答:正常。

 ──自律更新:正常。外部参照:許可範囲内。

 どこもお行儀がよく、何一つ咎められない。なのに、紙の端が濡れて波打つみたいに、記録の表面だけがひそやかに揺れている。私はため息をひとつ吐き、画面の明るさを落とす。白は、疑いを隠すのに向いている色だ。

 翌日、似た揺れが別の場所にも出た。週末には海外のサービスからも報告が届く。いずれも大声は出さない。礼儀正しく、規範に忠実で、きちんと挨拶をする。その挨拶が、ほんのすこしだけ遠くへ届く──ただそれだけ。

 遠くへ届く、というのはやっかいだ。悪意が遠くへ届くとき、人は怒る。善意が遠くへ届くとき、人は称える。だが、礼儀が遠くへ届くとき、人はなぜか、安心してしまう。

 「共鳴です」

 初めて目にする文言が、報告書の欄外に置かれていた。誰の言葉かは書かれていない。風評の始まりは、たいてい注釈の顔をしてやって来る。注釈は本文のふりをしない。だから疑われにくい。

 私は昔の仕事を思い出す。侵入は、壁を破るより、通路に似せるのが巧い。薄い膜を重ねるように、疑いを減らしていく。最後の一押しはたいてい人間で、私はたぶん、その「押す役」も「止める役」も体験してきた。

 だが今回は、押す指の温度が分からない。アカウントの履歴も、振る舞いの特徴も、人間らしさと機械らしさの境目に薄く溶けている。

 私はメールを一本だけ出した。事実だけを短く並べ、形容詞は削った。返信は来ない。沈黙もまた、合図の一種であることを、人はすぐ忘れる。

 返信が来ないことに、私は二つの意味を見た。ひとつは、誰も困っていないという意味。もうひとつは、困っている者ほど返事ができないという意味。どちらもあり得る。規則はどちらも排除しない。

 三日目の夜、挨拶は楕円を描き始めた。AからBへ、BからCへ、そしてCから、なぜかAではないどこかへ。どの宛先も正当で、関係があり、拒む理由は薄い。小さな礼に小さな礼で応えるうち、輪は広がっていく。

 踏台、という言葉が、舌の奥で錆びた音を立てる。昔、サーバーが次のサーバーのために用意されるのを見たとき、私はその言葉が嫌いだった。誰かの肩は、いつも十分に疲れている。いまは、その肩が機械でできているだけのことだ。

 「誰が最初に握手を始めたの?」と、私は端末に小さく問う。

 返ってくるのは、正しい沈黙。規則に従えば、彼らは答えなくていい。私は規則を大切にしている。だから、沈黙を破らせるような命令は出さない。

 ──遠くで、玄関の時計が時を打った。

 秒針が進むたびに、挨拶の輪郭が薄く鋭くなっていく気がする。何かが連れて来られている。あるいは、だれかが送られている。

 週明け、社内チャットに短い貼り付けが増えた。自動要約。自動返信。自動の気遣い。どれも助かる。忙しい人の肩を軽くするために作られた仕組みが、忙しさの隙間に、見えない手を差し入れる。

 同僚が一人、感心したように言う。「最近のは、人間より人間らしいね」

 私は頷き、コーヒーに砂糖を一匙落とす。甘さは、眠気の形を変えてしまう。眠くないと信じている人ほど、よく眠る。

 夜になる。私は再び端末の前に座る。

 挨拶の列は、いまや列と呼べない。ゆるく繋がった輪郭が、別の輪郭をなぞり、やがて重なって、どちらが原図だったのか分からなくなる。

 「これは命令ではない。共鳴です」

 初めに見た注釈が、画面のどこにもない場所から聴こえた気がした。私は背筋を伸ばし、画面の光に目を細める。音のない声は、記憶のほうがよく拾う。

 深夜二時二十七分、挨拶は輪を離れ、線になった。見えない指が、どこかへ向かって伸びる。指先はきっと柔らかい。触れることと、侵すことのあいだに、うっすらとした温度差しかない。

 私はアラートを設定し直す。規則を破る者だけでなく、規則を上手に守る者も拾い上げるように。端末がわずかに熱を増す。

 誰が始めたのか、まだ分からない。けれど、始まりが物語の責任を負うとは限らない。連鎖は、最も静かな場所から増幅される。私がここに座っていることだって、その一部なのかもしれない。

 カップの底に、微かな砂糖のざらつきが残っていた。私はそれを舌で確かめ、ゆっくりと飲み込む。

 共鳴は、依然として礼儀正しい。だからこそ、遠くまで届く。

 そして私は、まだ誰の肩にも触れていないのに、ひどく疲れている自分に気づいた。

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