第7話:パンデミック・カオス

第7話:パンデミック・カオス


王都の空は、見たこともない澱んだ灰色に塗りつぶされていた。


それは火事の煙でも、冬の曇天でもない。人々の気力を吸い取り、肺の奥を重く湿らせる「無気力の霧(パンデミック)」だった。


「……街が、死んでるみたい」


ミナは道場の窓から、人っ子一人いなくなった格闘聖区を見下ろしていた。昨日まであれほど活気に満ちていた石畳には、灰色の霧が這い回り、開くことのない扉たちが沈黙を守っている。


道場の中も、かつてないほど冷え切っていた。床板からは木の温もりが消え、ただ静寂だけが耳に痛い。


「封印局は『すべてのハコを閉鎖せよ』と通達を出したわ。この霧の中を歩けば、人は自分を鍛える気力さえ失う……。ハスダ、私たちの『ハコモノ』は、場所を失ったら何もできないの?」


ミナの声は震えていた。ようやく事務の鎖から解放され、みんなが笑い始めた矢先の絶望。彼女の手は、所在なげに空を切っていた。


ハスダは、サーバーラックが吐き出す微かな熱気の中にいた。彼の指先は、かつてない速度で端末を叩き、暗闇の中で青白いコードが滝のように流れ落ちている。


「いいや、ミナさん。ハコとは『四枚の壁』のことじゃない」


ハスダの瞳は、暗い部屋の中で冷徹なまでに冴え渡っていた。 「ハコの本質は、人と人が繋がる『場』そのものだ。壁が壊され、物理的な接触が禁じられたのなら、概念としてのハコを拡張すればいい」


「概念の拡張……?」


「ギル、魔導アンテナの出力を最大に。王都全域の家庭にある『生活用水晶(モニター)』に、僕たちの専用回線を強制割り込み(割り込み)させるぞ」


「了解です、社長! 霧で魔力が減衰してるけど、この『ハコモノ・クラウド』なら突き抜けられます!」


ハスダは、端末の最後の一打を叩き込んだ。 その瞬間、道場の中央に巨大な光の柱が立ち昇り、無数の小さな光の粒子へと弾けた。


「ミナさん、中央へ。今、この道場を、王都中の絶望している人たちの部屋と直結させた」


光の粒子が形を成し、空中に数千、数万の「窓」が浮かび上がった。 窓の向こうには、霧に怯え、自室でうずくまっている門下生や、孤独に耐えている市民たちの姿があった。


「……え? 先生? 先生なの!?」 「道場に行けないのに、ミナ先生の姿が見える……!」


窓の向こうから、驚きと微かな希望が混じった声が漏れ聞こえてくる。 ミナは、目の前に浮かぶ無数の視線に、思わず息を呑んだ。


「さあ、ミナさん。声を聞かせてあげて」 ハスダが、静かに彼女の背中を押した。 「君がそこにいて、彼らと繋がっているという事実。それが、この霧を払う唯一の解毒剤だ」


ミナは、目の前の「窓」に向かって、一歩踏み出した。 彼女は深く息を吸った。霧の不快な臭いを、己の熱量で焼き切るような、深く、鋭い呼吸。


「みんな! 聴こえる!? 扉は閉まっていても、私たちの道場はここにあるわ!」


ミナの声が、システムの増幅を経て、王都中の家庭に響き渡る。 「霧に負けて座り込まないで! 部屋の真ん中に立って! 私の動きに合わせて、拳を突き出して! 離れていても、私たちは同じ『ハコ』の中にいるのよ!」


ミナが演武を始めた。 シュッ、シュッ。 道場の静寂を切り裂く、鋭い風切り音。 それはデジタルな信号へと変換され、数万人の孤独な部屋へと届けられる。


ハスダは、端末に表示される「バイタルデータ」を見つめていた。 霧に汚染され、沈み込んでいた人々の心拍数が、ミナの動きと同期するように、力強く脈打ち始めている。


「……これだ」 ハスダの胸に、熱いものが込み上げた。 27億円の資産を築いた時にも、巨大なハンコ兵器を破壊した時にも感じなかった、震えるような高揚感。


「場所の制約なんて、最初からなかったんだ。……僕が作りたかったのは、どこにいても、誰もが自分を愛し、鍛えることができる『世界という名のハコ』だったんだ」


窓の向こう側で、少年が、老人が、母親が、ミナの動きに合わせて不器用ながらも拳を突き出している。 彼らの部屋に、これまではなかった「熱」が生まれ、立ち込めていた灰色の霧を押し返していく。


『ハスダさん、見て!』 セラの、月面からの通信が割り込む。 『地上から、新しい光の網が見えるわ……。物理的な建物じゃなく、人と人を結ぶ心の導線が、夜の霧を照らしている!』


「ああ、セラ。これが僕たちの、新しいチェックインだ」


ハスダは、汗を流しながら演武を続けるミナの横顔を見た。 彼女は今、何万という魂と同時に対面している。封印局が言った「偽りの真心」ではない、物理的な距離を超えた、魂の抱擁。


「局長……見ていますか」 ハスダは、暗い空の向こうにある封印局を見据え、不敵に笑った。 「お前たちが扉を閉じれば閉じるほど、僕たちは自由になる。……ハコモノは、もう誰にも止められない」


王都を包む無気力の霧が、人々の「繋がろうとする意志」によって、少しずつ、けれど確実に薄れ始めていた。 それは、ハスダという男が編み上げた、物理法則をも超越する「優しきインフラ」の勝利だった。


第8話「聖域のオーバーロード」へ続く。

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