第4話:ウェルビーイングの雫
第4話:ウェルビーイングの雫
巨大なハンコ型兵器が瓦礫と化した翌朝、格闘聖区の空気は一変していた。
道場を包み込んでいた、あの重苦しいインクの沈殿物のような気配が完全に消え去っている。代わりに漂っているのは、爽やかな杉の床板が放つ木の香りと、早朝の光が空気を焼く、微かな、けれど生命力に満ちた匂いだった。
「……信じられない。朝の五時から、こんなにみんなの顔が輝いてるなんて」
ミナは道場の入り口に立ち、呆然と、けれど嬉しそうに呟いた。 かつては、この時間は門下生たちが入り口で凍えながら並び、眠い目を擦りながら、震える手で分厚い誓約書に署名をしていた時間だ。
今は違う。 「ピッ」 「おはようございます!」 「ピッ」 「今日もお願いします!」
軽やかな電子音とともに、門下生たちが流れるように中へ入っていく。彼らは一秒の停滞もなく、そのまま更衣室へ向かい、一分後には道場で拳を振るっていた。
ハスダは、道場の隅に新設された「ラウンジ・エリア」で、静かにハーブティーを口にしていた。彼の膝の上には魔導端末があるが、その指先は動いていない。
「……ハスダ。何をそんなに見ているの?」 ミナが隣に座り、同じ方向を見つめた。
「『余白』だよ、ミナさん」 ハスダは、練習の合間に楽しそうに談笑する門下生たちを指差した。 「見てごらん。以前なら、あそこの少年は書類の書き直しを命じられて、窓際で泣いていたはずだ。でも今は、あんなに嬉しそうに、先輩から足捌きのコツを教わっている」
視線の先では、昨日の戦いで「事務の鎖」から解放されたスタッフたちも、驚くべき変化を見せていた。
「あの、佐藤さん。この間の突き、すごく良くなってましたよ! 腰の回転、もう少し意識するともっと良くなります!」 かつて、一日中受付で領収書を切る作業に追われ、死んだような目をしていたスタッフの恵が、一人の門下生に駆け寄り、満面の笑みでアドバイスを送っている。
「……あんな恵さん、初めて見たわ」 ミナの声が震えた。 「あの子、本当は教えるのが大好きだったのよね。でも、事務作業が忙しすぎて、門下生の名前を覚える余裕もなかった。それが今は……」
「これが、僕がこのシステムに込めた本当の願いだ」 ハスダは、温かいカップを両手で包み、その蒸気を深く吸い込んだ。 「効率化は、ただ楽をするためのものじゃない。削ぎ落とされた無駄の後に残る『時間』。そこに何が宿るかだ。……見てごらん、あの輝きを。あれが、ウェルビーイング(生命の輝き)の雫だよ」
その時、道場の中央で、一人の少女が初めて魔法の衝撃波を放った。 「できた……! できたよ、先生!」
少女の叫びに、道場全体から拍手が沸き起こる。 「すごいぞ!」「一ヶ月かかるはずの基礎を、たった三日でマスターしたのか!」 喜びの波動が、目に見える雫のように空間を跳ね、ハスダの肌を心地よく叩いた。
「……ハスダ、私、怖かったの」 ミナが膝の上で拳を握りしめた。 「魔法を自動化して、手続きを消してしまったら、道場の大切な『重み』が消えて、みんなの心が離れていくんじゃないかって。でも……」
彼女は、自分を慕って集まってくる門下生たちの、汗と笑顔が入り混じった顔を一人ずつ見つめた。 「逆だった。重荷を下ろしたからこそ、みんな、もっと高く跳べるようになったのね。あんたの言った通りだわ。ハコの中に、魂が満ちてる」
ハスダは、端末の画面を一度だけ点灯させた。 そこには、道場内の「幸福度指標」がリアルタイムのグラフとして映し出されていた。かつては底を這っていた数値が、今や太陽のコロナのように激しく脈打っている。
「ミナさん。ハコは、人を縛る檻じゃない。人を育む器なんだ。……事務の鎖が消えたこの場所で、彼らは初めて、自分の本当の限界に挑める。それがどんなに贅沢で、どんなに美しいことか」
その時、一人の少年がハスダの元へ駆け寄ってきた。 「ハスダさん! これ、あげる!」 差し出されたのは、道場の裏庭で摘んできたばかりの、小さな青い花だった。
「僕、今まで書類を書くのが遅くて、いつも練習が終わる頃には真っ暗だったんだ。でも今日は、朝の練習の後に、こんなに綺麗な花を見つける時間ができたよ! ありがとう!」
ハスダは、その花を受け取った。 指先に触れる、ひんやりとした花びらの感触。鼻をくすぐる、野草の清々しい香り。 それは、彼が築き上げてきた27億の資産よりも、どんな複雑なコードよりも、遥かに重みのある「成果」だった。
「……ありがとう。大切にするよ」
ハスダの目尻が、わずかに緩んだ。 コンサルタントとして、数字の羅列の中に生きてきた彼が、初めて手にした「計算できない価値」。
「さあ、ミナさん。この『雫』を、ここだけのものにしてはいけない。次は、この街全体のハコを、この光で満たしに行こう」
「ええ! 行きましょう、どこまでも!」
ミナが立ち上がり、空に向かって力強く拳を突き上げた。 その背中越しに、ハスダは見た。 道場から溢れ出したウェルビーイングの雫が、停滞した格闘聖区の街路に、少しずつ、けれど確実に広がっていく様子を。
事務の鎖が解けた後の「余白」には、希望という名の色が塗られ始めていた。
第5話「見えない境界線の崩壊」へ続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます