第3話:印鑑の呪縛
第3話:印鑑の呪縛
窓の外から響くのは、心地よい拳の風切り音ではなく、地を這うような不気味な地鳴りだった。
「……来たわね」
ミナが、道場の入口で鋭く目を細めた。彼女の視界の先、格闘聖区の石畳を粉砕しながら進んでくるのは、封印局が誇る禁忌の魔導兵器『大印(ダイイン)・ギョクジ』だった。
それは、高さ十メートルに及ぶ巨大な「ハンコ」の姿をしていた。真鍮のボディには、呪いのように複雑な手続きの条文がびっしりと刻まれ、底部からは真っ赤な、血のようにどろりとした印肉の魔力が滴っている。
「ハスダを差し出せ! 伝統ある魔法契約の秩序を乱す不届き者に、公式な『抹消印』を授けてやる!」
兵器の頂部から、封印局の監視官たちの怒号が響く。彼らは、巨大な羊皮紙の巻物を旗のようになびかせ、伝統という名の停滞を背負って押し寄せてきた。
ハスダは、道場の中央でいつものように魔導端末を操作していた。彼の周囲には、ミナの道場で働くスタッフたちが、不安げに肩を寄せ合っている。
「社長、あんなの勝てるわけねえよ! あのハンコに踏み潰されたら、僕たちの存在自体が『無効』にされちまう!」 ギルがゴーグルを直しながら叫ぶ。
ハスダは顔を上げず、キーボードを叩く指の速度を上げた。 「ギル、落ち着け。あれはただの巨大なスタンプじゃない。あれは『非効率』そのものが物理的な形を持ったものだ。ならば、対抗する手段は一つしかない」
「な、なんだよ?」
「圧倒的な『処理速度(スピード)』だ」
地鳴りが一段と激しくなり、巨大なハンコが道場の屋根を覆い隠すように高く跳ね上がった。空が、真っ赤な印面の影で塗りつぶされる。
「くらえ! 『最終承認・一斉棄却(ファイナル・リジェクト)』!」
紅蓮の魔力を纏った印面が、道場を押し潰そうと落下してくる。スタッフたちが悲鳴を上げ、目を閉じた瞬間、ハスダの指がエンターキーを強く叩いた。
「ハコモノ・コア、自動応答モード(オート・レスポンス)――起動」
その瞬間、道場全体が青白い光のグリッドに包まれた。 落下する巨大なハンコに対し、ハスダのシステムは物理的な壁を作らなかった。代わりに、空間そのものに数億行の「自動申請コード」を走らせたのだ。
ドォォォォォォン!
激しい衝撃音が響く。しかし、道場は潰れていない。 巨大なハンコの底部と道場の屋根の間で、無数の光の文字が火花を散らしていた。
「な……なんだと!? 私の『抹消印』が、押し返されているだと!?」 監視官が絶叫する。
「監視官、君たちの攻撃ロジックは古い」 ハスダの声が、静寂の戻った道場に響く。 「君たちは『手続きの煩雑さ』という重圧で相手を押し潰そうとする。だが、僕のシステムはそのすべての手続きを0.001秒で処理し、不備なく差し戻した。今、君たちの兵器は、自分たちが吐き出した『三億通の修正依頼』という自重に耐えかねているんだ」
巨大なハンコが、自身の重みでミシミシと軋み始めた。 ハスダが構築した「自動化の渦」は、封印局の攻撃を、単なる「処理済みのデータ」へと変換し、無効化していく。
「ギル、今だ。スタッフのみんなに、新しい『鍵』を渡してやれ」
ハスダの合図とともに、ギルが各スタッフの腕に輝く小さなリストバンドを装着していく。 その瞬間、スタッフたちの表情から、長年染み付いていた「事務疲れ」の影が消え失せた。
「……え? なにこれ、頭の中がスッキリする……」 「受付の予約管理も、会費の計算も、全部……勝手に終わってる……?」
彼らの背中に絡みついていた、見えないインクの鎖が、パリンと音を立てて砕け散った。 今まで「手続き」という名の重労働にリソースを割かれていた彼らの魔力が、本来の目的へと還流していく。
「これが、『アンチェイン(解放)』だ」 ハスダは、端末を抱えて道場の外へ一歩踏み出した。 「ミナさん、あとは君の仕事だ。伝統に固執して、人の時間を奪うだけの巨大なガラクタを、お掃除(デリート)してくれ」
「任せなさい!」
ミナの体が、これまでにない黄金のオーラを放った。 スタッフたちが解放した純粋な「応援」の魔力が、システムを通じて彼女一人に収束していく。
「事務の鎖に縛られた拳じゃ、届かなかったけれど……今の私は、自由よ!」
ミナは垂直に跳躍した。 空中で、巨大なハンコの横腹に、一撃を叩き込む。 「ハコモノ・ストライク!」
パキィィィィィィィン!
伝統の真鍮が、ガラスのように砕け散った。 中から溢れ出したのは、膨大な量の、真っ黒な古い書類の残骸だった。それらは風に煽られ、夕闇の中に消えていく。
地上に降り立ったミナの背後で、巨大なハンコ型の兵器がゆっくりと崩壊していった。
「……ありえん……封印局の威信が……」 監視官たちが、砕け散った真鍮の破片の中でへたり込んでいる。
ハスダは彼らの元へ歩み寄り、冷たく、けれどどこか慈悲のある眼差しで見下ろした。 「君たちも疲れているはずだ。こんな重いハンコを持ち歩かなくても、世界は回る。……これからは、君たちの仕事も僕が自動化してあげよう。空いた時間で、ゆっくりお茶でも飲むといい」
「……う、うう……」 監視官たちは、言葉を失い、ただ泣き崩れた。それは敗北の涙ではなく、終わりのない事務作業からようやく解放された、安堵の涙のようにも見えた。
道場の中では、スタッフたちが歓声を上げ、抱き合っていた。 「社長! すごいよ! これなら、もっとたくさんの人を幸せにできる!」 「ああ、これが本当の『現場』の姿だ」
ハスダは、スタッフたちが見せる屈託のない笑顔を、網膜に焼き付けた。 五感に響くのは、壊れた機械の金属音ではなく、未来を勝ち取った者たちの歓喜の歌。
「……ハスダ。ありがとう」 ミナが、汗を拭いながら歩み寄ってきた。 「私、わかった気がするわ。あんたが言っていた『お箸の教え』。自分のお箸(システム)を使って、誰かの口に食べ物(幸福)を運ぶ。……今日、私たちはそれをやったのね」
「……そうだね。でも、まだ格闘聖区のひとつを解放したに過ぎない」 ハスダは、夜空を見上げた。そこには、第10話で彼らが打ち上げるはずの、あの「新しい星座」の予兆が、淡く瞬いている。
「さあ、みんな。お箸を並べよう。今夜は、最高にうまい飯を食うぞ」
ハスダの号令に、九人の仲間たちが力強く応えた。 一万のハコを解放する旅路。その序曲は、今、最も激しく、そして美しく奏でられ始めた。
第4話「ウェルビーイングの雫」へ続く。
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