第2話:魔法の「箱(ハコ)」の再定義
第2話:魔法の「箱(ハコ)」の再定義
早朝の格闘聖区には、まだ夜の湿り気が残っていた。 道場の床板が吸い込んだ汗と、古い木材の匂いが入り混じり、冷え切った空気の中で重く沈んでいる。
ハスダは、道場の中心に置かれた漆黒の円柱――彼が『ハコモノ・コア』と呼ぶ自律型魔導回路の調整を行っていた。指先が黒い鏡面のような表面に触れるたび、内部で微細な歯車が噛み合うような、心地よい電子の駆動音が響く。
「……信じられない」
ミナが、道場の入り口で立ち尽くしていた。 彼女の手には、昨日までなら「朝のルーチン」だった、分厚い台帳と真っ黒なインク瓶がない。代わりに、彼女の視界にあるのは、一切のノイズを排した透明な静寂だった。
「ハスダ。これ、本当に……もう何もしなくていいの? 受付に座って、門下生たちの身分証を確認して、封印局への報告書を三枚複写して……あの地獄のような時間が、全部?」
「何もしなくていいわけじゃない、ミナさん」 ハスダは振り返らず、端末の座標を調整しながら答えた。 「君は、今日から『人間』に戻るんだ。事務作業という名の歯車ではなく、道場主という名の、魂の導き手にね」
「ピッ」という澄んだ音が、道場に響いた。 それは、最初の門下生が入り口の非接触結界(スマート・ゲート)を通過した音だった。かつてなら、重厚な鉄格子の解錠に五分、署名に十分かかっていた「門」が、一瞬の光とともに消え、若者が軽やかに足を踏み入れてくる。
「おはようございます、ミナ先生! 今日は早めに『昇龍拳』の予備動作をチェックしてほしくて!」
若者の瞳は、かつて書類の山に殺されていた時とは別人のように輝いている。 ミナは戸惑いながらも、自然と拳を握りしめた。 「え……ええ、そうね! じゃあ、あそこの砂袋で待ってて。すぐ行くわ!」
「……ハスダ」 ミナは、自分の指先を見つめた。 「指が……震えてる。ペンを握らなくていいっていうだけで、こんなに体が軽いなんて。今まで私たちは、どれだけの重りを背負って走らされてたの?」
「それが『ハコ』の呪いだ」 ハスダは立ち上がり、道場の四隅に設置された感知器(センサー)を指差した。 「従来の道場は、ただの『物理的な壁』だった。だから管理のために、人間を門番に仕立て、紙で縛るしかなかった。だが、僕が再定義したこのハコは、生きている。空間そのものが、誰が、いつ、何を求めてここに来たのかを理解しているんだ」
「ハコが……生きている?」
「ああ。自律型魔導回路が、予約、契約、決済、そして安全管理まですべてを自律的に行う。ハコそのものが知能を持つことで、中にある『モノ(価値)』――つまり君の指導や、彼らの成長――を最大化する。これが、僕がこのシステムに『hacomono』と名付けた理由だ」
その時、道場の外で、空気を引き裂くような耳障りな角笛の音が鳴り響いた。 重々しい足音とともに、数人の男たちが現れる。灰色のローブを纏い、首から巨大な『封印局』の真鍮製メダルを下げた監視官たちだ。
「……不法建築、および未認可魔導回路の設置。道場主ミナ、およびその協力者ハスダ。即刻、活動を停止せよ!」
先頭に立つ初老の男が、古びた羊皮紙を突きつけた。紙から放たれる「停滞の魔力」が、道場の清々しい空気を一瞬にして澱ませる。
「監視官殿。活動停止の根拠は何かな?」 ハスダが、一歩前へ出た。その足取りは、まるで計算された数式のように微塵の乱れもない。
「根拠だと? 封印局の正式な署名なき契約は、すべて無効だ! この道場には、監視官の目が行き届く『受付』がない。これは秩序への反逆である!」
「『目』なら、ここにありますよ」 ハスダは、手元の端末を監視官に差し出した。 「この回路は、リアルタイムで全門下生の魔力消費量、滞在時間、安全ステータスを記録している。封印局が数週間かけてまとめる報告書よりも、一億倍正確に、一秒ごとに更新されています」
「そんなものは認めん! 魔法とは、人間が苦労して、紙に血を吐くような思いで書き記してこそ、その正当性が保証されるのだ。便利なだけの道具など、魔法への冒涜だ!」
監視官が怒りに任せて、巨大な『封印の杖』を振り上げた。 道場内に漂う、事務作業という名の鎖の残滓を掻き集め、ハスダの端末を破壊しようとする。
「ミナさん。ここは、君のハコだ」 ハスダが、静かに言った。
ミナは、ハスダの言葉の意味を瞬時に理解した。 彼女は、かつて事務作業に奪われていた時間を、すべて「イメージ」に注ぎ込んだ。 道場という空間が、自分の血肉のように感じる。 自分がここにいて、仲間たちがいて、それを守るための力がある。
「……私たちのハコを、これ以上汚させない!」
ミナが床を蹴った。 かつてインクで汚れていた指先が、今は純粋な闘気の炎を纏っている。 彼女の一撃は、監視官が放った「停滞の呪縛」を紙屑のように切り裂いた。 ハスダのシステムが、ミナの動きに合わせて照明を絞り、魔力の流れを最適化する。空間すべてが、彼女の味方だった。
「な、なんだこの速さは……! 封印の鎖が、届かない……!?」
「当たり前よ」 ミナは、監視官の鼻先で拳を止めた。鋭い風圧が、男のローブを派手になびかせる。 「私は、もう書類を抱えて走らなくていいの。私のすべての力は、この一撃のためにあるんだから!」
監視官たちは、ミナの気迫と、道場全体から感じる「見えない意思」に圧倒され、震える手で羊皮紙を抱えて退散していった。
静寂が戻る。 朝の光が窓から差し込み、磨き抜かれた床の上でキラキラと跳ねた。
「……勝ったのね、私たち」 ミナが、肩を上下させて笑った。その顔には、一年前の、情熱に溢れていた少女のような輝きが戻っていた。
「いや、まだ一歩目だ」 ハスダは、再び『ハコモノ・コア』の前に跪き、次の調整を始めた。 「このハコは、やがて街中のジム、スクール、公共施設へと広がっていく。すべての『ハコ』から事務の鎖が消えたとき、世界はもっと健やかになれる」
ハスダは、自らの指先を見つめた。 そこには、かつてのコンサルタント時代に叩き続けたキーボードの熱が残っている。 27億円の資産よりも、一億冊の著書よりも。 今、目の前で一人の人間が自由に拳を振るっている。その事実こそが、彼にとっての「最適解」だった。
「ミナさん、お腹が空いた。九膳のお箸を並べて、朝飯にしよう」
「……何それ。変な例え」 ミナが可笑しそうに笑い、ハスダの背中を叩いた。
大田区の古い空気に混じって、新しい時代の「ハコ」が産声を上げた。 それは、魔法でも奇跡でもない。 人間が人間らしくあるための、知恵と勇気が生み出した、滑らかな革命の始まりだった。
第3話「印鑑の呪縛:巨大魔導兵器の襲来」へ続く。
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