第1話:その「署名」が魂を削る

第1話:その「署名」が魂を削る


王都の北側に位置する、かつては栄華を誇った格闘聖区。 その一角にある『ミナの不撓道場(ふとうどうじょう)』は、湿り気を帯びた埃と、何世代にもわたって染み付いた古いインクの匂いに支配されていた。


「……また、書き直し。いい加減にしてよ」


若き門下生が、力なく羽ペンを放り出した。その指先はインクで黒く汚れ、修行のために鍛えられたはずの掌は、冷たい羊皮紙との摩擦で赤く腫れている。


ハスダは、道場の隅にある古びた木椅子に腰掛け、その光景を静かに眺めていた。 彼の耳に届くのは、本来あるべき「気合の咆哮」や「肉体がぶつかり合う音」ではない。カリカリ、カリカリ。何十人もの人間が、ひたすら紙に文字を刻み続ける、病的なまでの筆記音だけだ。


「受付のミナさん! この『第十四条・魔力暴走時の免責事項』の裏書き、三枚目と四枚目で印影が微妙に違うって、封印局の監視官に突き返されました!」


受付カウンターの奥で、燃えるような赤い髪を振り乱し、悲鳴を上げているのが道場主のミナだった。彼女の周囲には、人の背丈ほども積み上がった「呪印紙(じゅいんし)」の山がある。


「ごめん! 私も分かってるの! でも、この署名が完了しないと、結界の鍵が開かないのよ。みんな、お願い、あと少しだけ耐えて!」


ミナの叫びは空虚に響いた。 一人の若者が立ち上がり、汚れきった道着のまま、出口へと歩き出した。


「もういいよ。強くなろうと思ってここに来たのに、三時間座って書類を書いて、やっと許可が下りた頃には魔力(スタミナ)が切れてる。……俺、もう実家の農家に帰るわ」


「待って! 昨日はあと少しで『旋風脚』を掴みかけてたじゃない!」


ミナが身を乗り出して引き止めるが、若者は振り返らなかった。 扉が閉まる音。それは、一つの才能が、事務作業という名の底なし沼に沈んで消えた音だった。


ハスダは、ゆっくりと立ち上がった。 仕立ての良い白いシャツの袖を捲り上げ、カビ臭い空気の中を、受付カウンターへと歩む。


「……酷いものだね」


その低い、けれど透き通った声に、ミナが顔を上げた。 「……あんた、誰? 入門希望者なら、あっちの待機列に並んで。書類は全部で八百枚、だいたい六時間はかかるから」


「私はハスダ。ハコ(施設)の中に眠るモノ(価値)を、無意味な鎖から解き放ちに来た者だ」


ハスダは、ミナの目の前にある、山積みの羊皮紙の一枚を指先でなぞった。 「この紙一枚に、どれだけの魔力が込められているか知っているかい? 封印局は、手続きという儀式を複雑にすることで、民衆の『やる気』を徴収しているんだ。事務作業は、魂を削る最も効率的な拷問だよ」


「……そんなの、言われなくても分かってるわよ!」 ミナの瞳に、悔し涙が滲んだ。 「でも、これがルールなの! 署名して、印を押して、監視官の承認を得る。そうしなきゃ、道場の魔導具一つ動かせない。私はみんなに強くなってほしいだけなのに……なんでこんな、紙切れの番人みたいな真似しなきゃいけないのよ!」


ミナの拳が、カウンターを叩いた。その拳には、本来なら戦いで誇り高く刻まれるべきタコがあった。それが今は、ペンを握り続けたせいで無残に形を崩している。


ハスダは、懐から薄型の魔導端末(コア)を取り出した。 それは、鈍い銀色の光を放つ、未知の工芸品だった。


「ミナさん、君の道場を、僕に貸してくれないか」


「はぁ? 何を言って……」


「今から、この場所を『呪縛(アナログ)』から『解放(デジタル)』する。……アル、準備はいいか」


どこからともなく、ゴーグルをかけた青年・ギルが現れ、道場の入り口に奇妙な金属製のゲートを設置し始めた。


「社長、いつでもいけますぜ! 封印局の古い回線をバイパスして、新設計の『ハコモノ・コア』に直結しました!」


ハスダは、端末の画面を鋭い手つきでスワイプした。 彼の指先から、目に見えない光の糸が伸び、道場全体を覆っていた重苦しいインクの臭いを、オゾンのような清涼な香りに書き換えていく。


「何、これ……体が、軽い……?」 門下生たちが、顔を上げた。


「全員、そのペンを捨てろ」 ハスダの声が、静かに道場に響き渡った。 「これからは、その端末に指を置くだけでいい。署名はいらない。印鑑もいらない。君たちがここに『来た』という意志そのものが、すべての契約を履行させる」


「そんなバカな……! 封印局が黙ってないわよ!」


「彼らが来る頃には、この道場は世界で最も滑らかな『聖域』に変わっている」


ハスダが最後の一打(タップ)を下した瞬間。 積み上がっていた羊皮紙の山が、青白い光の粒子となって霧散した。 代わりに、入り口のゲートが「ピッ」という軽やかな音を立てて開き、中から溢れ出した純粋な魔力が、道場の空気を一変させた。


「……あ」


ミナが目を見開いた。 先ほどまで書類を書いていた少年の一人が、吸い込まれるように練習場へ走り込み、力強い正拳突きを繰り出したのだ。 シュッ、という鋭い風切り音。 それは、数時間ぶりに道場に戻ってきた、「命の声」だった。


「……これよ」 ミナは、自分の震える手を見つめた。 「私が聞きたかったのは、ペンが走る音じゃない。みんなが自分を超える、この音だったんだ……!」


彼女はハスダを振り返った。 「あんた……一体、何をしたの?」


「特別なことは何も。ただ、無駄を削ぎ落としただけだ」 ハスダは、端末を閉じ、穏やかに微笑んだ。 「お箸を並べて、ご飯を食べる。それと同じくらい当たり前に、修行(トレーニング)ができる世界。……それが、僕の作る『ハコモノ』だ」


だが、その時。 道場の外で、重厚な鎧が擦れる音がした。 「封印局だ……!」ミナの顔が青ざめる。


「構わない。扉はもう、内側から開いている」


ハスダは、窓の外に広がる、停滞した王都の街並みを見据えた。 事務作業という鎖を断ち切る、静かなる革命。 蓮田健一という男の魂を宿した魔術師の、長い戦いが今、幕を開けた。


第2話「魔法の『箱(ハコ)』の再定義」へ続く。


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