第3話 覚醒の代償

 坂の上から雪崩れ落ちてきたのは、高さ四メートルはある山車だ。

 最上部の太鼓が、狂ったように揺れている。

 雨上がりの湿気で緩んでいた地面に、車輪が足を取られたらしい。制動手が必死にブレーキ棒を操作しているようだが、数トンに及ぶ質量は一度走り出したら止まらない。

 留め具が弾け飛ぶ乾いた音が、断末魔のように響いた。


「――っ!」


 悲鳴と怒号が交錯し、誰もが我先にと逃げ惑う中、僕だけが、その場に縫い止められていた。


 迫りくる巨大な影。

 提灯の揺れる光。

 そして、鼻をつく鉄と木の匂い。


 それら全てが、僕の脳裏に焼き付いている「あの日」の記憶と完全に合致してしまった。

 半年前の夜。対向車線を飛び出してきたトラックのヘッドライト。急ブレーキの音。世界が反転する浮遊感。

 脳が危険信号を発しているのに、体がそれを「回避すべき未来」ではなく「確定した過去」として認識してしまっている。

 動けない――指一本、瞬き一つすら、僕の意志ではどうにもならない。


 死ぬんだ。また。

 今度は、僕が。


 冷たい諦めが胸を満たそうとした、その時。


「――逃げて!」


 悲鳴のような声と共に、強い力で肩を突き飛ばされた。

 不意を突かれた僕は、たたらを踏んで数歩後ろへ下がる。

 視界が大きく揺れ、代わりに僕が居た場所に、小さな影が滑り込んだ。


 杜野栞だ。


 彼女は僕を逃がすために、自ら盾になる位置へ飛び込んだのだ。

 逃げ遅れた僕を助けるには、引きずっていく時間がない。ならば自分が前に出て、僕を突き飛ばすしかない。

 そんな破滅的な判断を、考えるよりも速く、必然であるかのように行ったのだ。


「杜野、さん……?」


 喉から、掠れた声が漏れる。

 彼女は振り返らない。

 藍色の浴衣。朝顔の柄。細い背中。

 その背中が、震えているのが分かった。怖いのだ。あんな木の塊が突っ込んできて、平気なはずがない。

 それでも彼女は、一歩も退かなかった。


 その姿が、重なった。

 『――朔、伏せて!』

 潰れた運転席から、血まみれになりながらも後ろを振り向き、僕に覆いかぶさろうとした母さんの背中と。


 ドクン。心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ねた。

 視界が赤く染まる。

 トラックの金属音と、山車の車輪がアスファルトを削る音が重なって聞こえる。

 あの時、僕は無力だった。

 ただ守られて、ただ震えて、瓦礫の下で冷たくなっていく両親の手を握ることしかできなかった。


 『神様が預かった力なんだって』

 いつか栞が言った言葉が、頭の中で蘇る。

 預かった?違う。

 これは、そんな高尚なものじゃない。

 ただ失いたくないという、僕の我儘(わがまま)だ。


「――あ、ああああッ!!」

 喉が裂けんばかりの絶叫が迸った。

 それは恐怖からの叫びではなく、運命に対する魂からの拒絶だった。


 恐怖という感情が蒸発し、代わりに血管の中を溶岩が流れるような、灼熱の感覚が全身を駆け巡った。背骨の髄から、人間ではない何かが覚醒する。


 時間は泥のように遅くなった。

 迫りくる山車の木目一つ一つが、鮮明に見える。

 僕は地面を蹴った。

 コンクリートが爆ぜる感触。

 突き飛ばされた体勢から、弾丸のような速度で栞の背後へと肉薄する。


「え……?」


 栞が気づいて振り返ろうとするよりも速く、僕は彼女の細い肩を掴み、自分の背中側へと引き寄せた。

 強く、けれど傷つけないように。

 彼女の驚愕に染まった瞳が、スローモーションの中で僕を捉える。


 これでいい。

 僕の前には、もう誰もいない。


 目の前には、暴走する「死」の具現が迫っていた。

 山車の舵取り棒――梶棒かじぼうと呼ばれる、大人の太ももほどもある樫の木が、僕の鼻先数センチまで迫っている。


 逃げる? いいや。

 避ける? そんなことをすれば、後ろにいる栞や、他の客が巻き込まれる。


 止めるんだ――ここで。僕が。

 僕は左足を大きく踏み出し、腰を落とした。

 スニーカーのソールが悲鳴を上げ、アスファルトに食い込む。

 全身の筋肉が、歓喜しているように熱い。

 血液が沸騰し、骨がきしむ。

 右腕を突き出し、迫りくる樫の棒を、正面から迎え撃った。


 次の瞬間、本来なら人体など容易く弾き飛ばされ、骨が砕ける音が響くはずだった。

 あるいは、車と衝突したときのような、硬質な衝撃音が轟くはずだった。


 けれど、響いたのは、誰も聞いたことのない異質な音だった。


 ――メキョッ。


 それは、水に濡れた巨大な粘土を握りつぶしたような、湿った破壊音だった。


 僕の右手が、梶棒の先端を鷲掴みにしていた。

 衝撃は腕を伝って肩へ、そして背骨へと抜けていく。

 数トンの質量と速度のエネルギーが、一点に集中して僕を押し潰そうとする。


 だが、「――――ッ!!」

 声にならない気合いを、奥歯で噛み殺し、五指にありったけの力を込めた。

 握力――ただそれだけの、単純な力。

 だが、人外の領域に達したその力は、物理法則をねじ伏せる。


 掌の中で、鋼鉄よりも硬いはずの樫の木が、砕けていく。

 指が木材の繊維を無視して深々とめり込んでいく。

 木の密度が圧縮され、水分が蒸発して白い湯気が上がる。

 硬い木が、まるで柔らかい飴細工のように捻じ切れ、ひしゃげ、粉砕されていく。


 僕の手は、山車の推進力を「破壊」によって殺していた。

 棒の先端が粉々になり、衝撃が吸収される。

 足がアスファルトを削りながら、ズザザザッ、と後退する。

 摩擦熱で足の裏が焼けるように熱い。

 それでも、僕は絶対にその手を離さなかった。


 止まれ。止まれ。

 もう何も奪わせない。

 僕の手は、失うためにあるんじゃない。掴んで、繋ぎ止めるためにあるんだ。

 最後の力を振り絞り、ひしゃげた梶棒を地面に向けて叩きつけるように押し込んだ。


 ズンッ、という地響きと共に、山車の後輪が浮き上がり――そして、落ちた。

 巨大な怪物は、その体躯を大きく揺らし、軋んだ音を立てて、沈黙した。

 目の前には、無残に砕け散った梶棒の残骸だけが残っていた。

 掌から、パラパラと木の粉がこぼれ落ちる。


「……は、ぁ……っ」


 熱が引いていく。

 溶岩のように煮えたぎっていた血が、急速に冷えていくのを感じた。

 遅れてやってきたのは、激しいめまいと、全身の脱力感だった。


 周囲は、水を打ったように静まり返っていた。

 悲鳴も怒号も消え、ただ物理的にあり得ない光景を前に、世界が凍りついたようだった。


 自分の心臓の音だけが、耳元でうるさいほど鳴り響いている。

 僕は膝から崩れ落ちそうになるのを、堪えて立ち尽くした。

 右手は、火傷したように赤く腫れ上がっているが、不思議と痛みはなかった。

 ただ、その手が人間のものではない何か異質なもののように思えて、僕は自分の手を見つめたまま、動けずにいた。

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2026年1月3日 14:00

神様には内緒で、君と手をつなぐ夏 宮城 マコ @maco-kun

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