第2話 灯籠の明かり
土曜日の夕暮れは、どこか嘘のような紫色をしていた。
祖母が用意してくれた甚平に袖を通し、僕は神社の鳥居の下で待っていた。
山の方角から、風に乗って太鼓の音が聞こえてくる。
「――お待たせ、春日くん」
声に振り返ると、栞が立っていた。
藍色に朝顔の柄があしらわれた浴衣。いつもの眼鏡はそのままだが、後ろで結われた髪と白いうなじが、夕闇の中で目を引いた。
「……ごめん、遅くなった?」
「ううん、今来たところだから。……あの、似合ってる、と思う」」
咄嗟に出た言葉は、我ながらぎこちない。
栞は一瞬きょとんとした後、少し照れたように笑った。
「ありがとう。……甚平、春日くんも似合ってる」
互いに少し照れくさくなって視線を逸らし、気まずさを誤魔化すように歩き出す。
参道に並ぶ常夜灯に、一つ、また一つと明かりが灯っていく。
境内に近づくにつれ、空気が変わった。
ソースが焦げる匂い、綿菓子の甘い香り、発電機の音。
無数の提灯が頭上を覆い、行き交う人々の笑顔を照らし出す。
「すごい人だね……」
思わず漏らした声は、喧騒にかき消されそうになった。
家族と並んで歩き、他愛のないことで笑い合う――半年前まではこの光景の中にいたはずだ。
けど今は、その輪の外に立っている気がする。
「春日くん、はぐれないでね」
栞が振り返ってそう呟き、甚平の袖を軽く摘んだ。
「ここの参道、狭いから」
「あ、うん……ごめん」
袖ごしに伝わる微かな力が、頼りなくも確かな繋がりに感じられる。
「あっちの射的は絶対に当たらないって評判。店主のおじさんが、コルク弾に細工してるって噂」
栞は時折、僕を振り返っては豆知識を披露してくれた。
その声はいつもより少し弾んでいる。彼女が僕を楽しませようとしてくれているのが分かった。その優しさが嬉しい反面、胸の奥が少し痛んだ。
ふと、視界の端で小さな子供が転んだ。
母親がすぐに駆け寄り、抱き起こす。子供はすぐに泣き止み、また笑顔で走り出した。
なんてことのない光景。
けれど、僕の掌がじわりと汗ばんだ。
――大丈夫じゃない時だってあるんだ。
助け起こしてくれる手が、永遠にあるわけじゃない。
暗い思考が湧き上がりそうになり、僕は慌てて頭を振った。だめだ、せっかく誘ってくれた栞に失礼だ。
「……少し、静かなところに行こうか」
僕の表情の変化に気づいたのか、栞はそう言って、参道から外れた社務所の軒下へ僕を連れていった。そこは提灯の明かりも届きにくく、喧騒が遠のく場所だった。
「ごめんね、連れ回しちゃって」
「ううん、僕こそ。人混みに酔っただけだから」
嘘をつく。
栞は何も言わず、持っていたりんご飴の一本を僕に差し出した。
「はい、お守り」
「お守り?」
「甘いものを食べてると、悪い気にあてられないって。私のお婆ちゃんがよく言ってた」
真顔で言うものだから、少しおかしくなってしまった。
一口かじると、硬い飴が割れる音と共に、強烈な甘さが口の中に広がった。
シンプルで懐かしい味。
ふと横を見ると、栞も同じように林檎飴にかじりつこうとしていた。けれど、飴が大きすぎて、頬に赤い飴がついてしまっている。
普段は理知的な少女の、年相応の無防備な姿。
「……あはは、ついてるよ、飴」
考えるより先に、笑い声が出た。
指差すと、栞は「えっ」と目を白黒させ、慌てて指で頬を拭う。その仕草がまたおかしくて、僕は声を上げて笑った。
でも、笑ったことに気づいた瞬間、罪悪感が背筋を駆け上がった。
両親がいなくなって、まだ半年。僕だけが祭りを楽しんで笑っている。
それは死んだ二人への裏切りのように思えて、表情が凍りついた。
笑い声を喉の奥に押し込み、視線を足元に落とす。
「……ごめん」
理由も分からないまま、謝っていた。
「春日くん」
栞は静かに言って、じっと僕を見つめていた。
「いいんだよ。笑うのは、悪いことじゃない。美味しいものを美味しいって思うのも、綺麗なものを綺麗だって思うのも、生きてるなら当たり前のことだよ」
「でも、僕は……」
「亡くなった人が何を思ってるかなんて、私には分からない」
栞は言葉を切り、僕の手の中にある林檎飴に視線を落とした。
「でも、春日くんが今、ここで笑ってた顔は、すごく自然だった。……私は、そっちの方がいいと思うな」
慰めでなんかではない。ただ淡々とそう告げた。
その言葉が、強張っていた僕の心を、ほんの少しだけ緩ませた気がした。
「……ありがとう、杜野さん」
「どういたしまして。さ、そろそろ行こっか。花火、いい場所で見たいから」
栞は照れ隠しのように早口で言うと、再び歩き出した。
僕も慌てて後を追う。林檎飴の甘さが、まだ口の中に残っていた。
神社の本殿へ向かうには、「男坂」と呼ばれる急な石段と、
栞が選んだのは、坂道の方だった。
時間は十九時を回り、祭りは最高潮を迎えていた。
坂道は、これからクライマックスの「山車合わせ」を見ようとする見物客でごった返していた。
「すごい人……手、離さないでね」
彼女の声も、周囲の轟音にかき消されそうだ。
お囃子の音が大きくなる。それに合わせて、人々の掛け声も熱を帯びていく。
人の体温、汗の匂い。それに混じって、何かが焦げた匂いが漂ってくる。
――キキーッ!
不意に、耳をつんざくような音が響いた。
マイクのハウリングか、何かが擦れる音。
その鋭い音が、僕の記憶を乱暴に引きずり出す。
『――危ない!朔、伏せろ!』
急ブレーキの音。タイヤの摩擦音。そして、金属と金属がぶつかり合う、鼓膜が破れそうな破壊音。
僕は思わず足を止めた。
心臓が内側から肋骨を叩く。呼吸が浅くなる。
酸素の代わりに、ガソリンと鉄の錆びた臭いが鼻腔を満たす。
「春日くん?」
振り返った栞の口は動いているが、音が遠い。
視界が歪み、提灯の赤い光があの日の炎の色と重なった。
ボンネットから立ち上る煙。ひしゃげたドア。割れたガラスの破片。
――嫌だ。思い出したくない。
喉から声にならない音が漏れ、脂汗が額を伝う。
足が鉛のように重くて、一歩も動けない。
ここは祭りだ。あんな地獄じゃない。
頭では分かっているのに、体が拒否反応を起こしている。
パンッ! パンパンッ!
近くで爆竹が鳴った。
その破裂音が、決定的な引き金になった。
衝撃。痛み。逆さまの視界。
僕の意識は、完全に「あの日」へと引き戻されていた。
周囲の人々は、立ち止まったままの僕を怪訝な目で見る。
ごめんなさい。動きます。
「春日くん! しっかりして!」
栞が人波を押し分けて戻ってきて、僕の両肩を掴んだ。
彼女の体温が、冷え切った僕の体に触れる。
その瞳には、先ほどまでの穏やかさはなかった。
「顔色が真っ青だよ。……外に出よう。私の肩につかまって」
栞の声が、少しだけ僕を現実に繋ぎ止めた。
ここは祭りだ。目の前にいるのは栞だ。
僕は震える手で彼女の肩に触れようとした。
その時――坂の上の方から、悲鳴が上がった。
「――おい! 避けろォ!」
重い何かが地面を削りながら地響きをたてて滑り落ちてくる。
群衆が波を打ったように割れ、その隙間から巨大な影が現れた。
制御を失い、重力のままに坂道を滑走してくる、巨大な質量を持った木の塊――山車だ。
僕の体は、恐怖で完全に凍りついた。
逃げなければ。そう思うのに、足が動かない。
迫りくる死の気配。
それは半年前のあの日、僕が車の後部座席で感じた絶望と、同じ色をしていた。
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