2.鏡の中のアクトレス
「来ちゃった……」
初瀬川総合病院女子職員寮の205号室。表札に「太田詠美」と書かれたその部屋のドアの前にまで来て、まだ「彼女」は二の足を踏んでいた。
「しょうがない、よね?」
100近く数えられるほどの躊躇ののち、ハンドバッグから取り出した鍵を差し込み、ドアを開ける。
意を決して「彼女」が部屋に入ると……目の前には、少々飾り気には乏しいものの、間違いなく若い女性が暮らしていると思しき空間が広がっている。
「うぅ、なんか、罪悪感……」
心持ち頬を赤らめつつ狭い玄関で靴を脱ぐと、「彼女」は室内に足を踏み入れた。
8畳程度の広さのワンルームで、クリーム色の壁紙とベージュのカーペットで無難な色彩にまとめられている。
玄関からは見えない位置にベッドとドレッサーが置かれ、反対側の壁際にやや大きめのタンスが本棚がある。ベッドカバーの色は淡い空色だ。
部屋の余白の中央には2メートル四方くらいの毛足の長い絨毯が敷いてあり、その上にローテーブルとクッションが置かれている。クッションに座ると本棚の一角に設置された液晶テレビを観るのにちょうどよい位置なのだろう。
「女の子の部屋」と聞いて連想されるぬいぐるみやマスコット人形、あるいはファッション雑誌や男性アイドルのポスターなどは見当たらないが、スイートピーが活けられている簡素な一輪ざしは、男の部屋にはあまりないものだろう。
全体に清潔感は感じられるが、女らしさ(あるいは女臭さ)は乏しい印象だ。
「──ふふっ、英美さんらしいや」
「このような状況」になって以来、初めて「彼女」はクスリと笑いを漏らすと、それで緊張がほぐれたのか、いくぶん肩の力が抜けたようだ。
時刻はすでに午前2時を回っている。
明日の朝は会議があるから8時半には出勤しないといけないのだ。色々考えるべきことはあるものの、とりあえず今日はもう寝ようと考え(あるいは深く悩むことを放棄して)、「彼女」は、「化粧を落とすために」洗面所に向かった。
1ルームとは言え、一応玄関から部屋までのあいだに短い廊下のようなものがあり、そこの右側が台所(と言っても幅50センチ足らずの流しと電気コンロがあるだけだが)、左側がトイレ&洗面所&シャワー室になっている(ちなみに風呂は1階に共同の大浴場がある)。
「彼女」は、レディススーツの上着を脱いでハンガーにかけてから、洗面所に足を運んだ。
メイク落としを使い、顔をぬるま湯で洗ってから、なにげなく鏡を覗き込んで、「彼女」──いや、「太田詠美」という立場になった青年は、ふと我に返り、真っ赤になった。
「え? あれ、ボク……えぇっ!?」
軽いパニックになる「詠美」。
部屋に入るまであれ程ためらっていたのが嘘のように、たった今まであたかも本当にこの部屋の主であるように振る舞っていたはずなのだが。
「どうして? な、なんで!?」
自分のとった行動自体は覚えているらしい。ただ、そんな真似がなぜ出来たのかが、「詠美」には理解できていないのだ。
言うまでもなく、これは例の「立場交換のカクテル」の副次的効果だ。本来の自分を強く意識しない限り、ふたりは現在の立場にふさわしい行動を無意識にとってしまうのだ。
そして、日常的な習慣については、人間は意外とあまり意識せずに行動しているものなののだ。
これから一週間、「彼女」が「初瀬川総合病院の小児科の婦長・太田詠美」として暮らすためには不可欠な措置とも言えるが、この時の「詠美」は、自分の自我同一性(アイデンティティ)がグラリと揺らいだような、不安な気分でいっぱいだった。
「ボクは……ボク、だよね?」
すでに化粧を落としてスッピンになったはずの鏡の中に映る自らの顔は、けれど髪型が変わっていることもあいまって、どこかいつもより女性的に感じられる。
「そんなはずはない」と首をフルフルと振りつつ、まるで鏡から逃げるようにして、「詠美」は狭い洗面所から出て、部屋に戻る。
「はぁ~疲れたなぁ」
そのままボフンとベッドに仰向けに身を投げる。
今日(正確には昨夜)は、本来それ程アルコールに強い方でもないのにストレスに任せて痛飲し、そのあとマスターから「例のカクテル」を飲まされてしばし潰れ、目が覚めたと思ったらこんな状況──幼馴染の女性と「立場を入れ換えられて」いたのだ。
あまり神経がズ太くない「詠美」としては、もう限界だった。
「脱がないと洋服が皺になっちゃう」と頭の片隅で危惧しながらも、「彼女」はそのまま泥のような眠りに引きずり込まれていくのだった。
* * *
──PiPiPi……
ベッドサイドに置かれた目ざまし時計の音で、泥のような眠りから強制的に起こされる。
「うぅ~ねむい……」
それでも今日は朝から週に一度の婦長会議がある日だ。ベテラン揃いの各科の婦長の中では自分が一番年下なのだから、遅れるわけにはいかない(いや、年長なら遅刻してもいいと言うワケでもないが)。
いまだ半覚醒状態のまま、それでも渋々ベッドから身を起こす。
「あちゃー、昨日、このまま寝ちゃったんだ」
ブラウスはともかくタイトスカートまで皺くちゃになっている。これはもうクリーニングに出すしかないだろう。
余計な出費に落胆しつつも、プチプチとブラウスのボタンを外し、スカートのホックとジッパーを下ろして脱ぎすてる。
下着にパンストという、はしたない(見ようによって扇情的な)格好のままタンスを物色し、替えのブラジャーとショーツを取り出す。勤務中はあまり色の濃い下着を着けられない(でないとナース服から透けて見える)のが、看護師という職業の不自由なところだろう。
とりあえず、オフホワイトのフルカップブラと同色のショーツをベッドの上に並べてから裸になり、下着をランドリーボックスに入れた後、シャワーを浴びる。
時間がないのでゆっくり洗っている暇はないため、サッと汗を流しただけで上がると、バスタオル一枚の格好のまま、ドレッサーの前に座り──そこで「詠美」は、はたと我に返った。
「な、何やってるんだ、ボクは!?」
どうやら、寝ぼけ眼のまま無意識に動いていたため、またも身体が勝手に「太田詠美」に相応しい行動をとってしまったらしい。
鏡には胸を隠すようにバスタオルを巻いた自分の姿が映っており、昨夜以上に女性的に見え、「詠美」は顔を赤らめた。
確かに、成人女性の朝の支度の仕方なんて、独身かつ恋人もいない詠一が知るはずもない。だから、ある意味、助かることは助かるのだが……そのメリットを踏まえても、「自分の身体が勝手に動く」と言う現象は、やはり不気味だし遠慮したい。
「このまま流されてちゃマズいよね……」
もし女としての行動が無意識にしみついてしまったら、元の詠一の立場に戻ってもカマっぽい仕草とかが出るかもしれない。それは勘弁してほしかった。
「これから出来るだけひとつひとつの行動をキチンと意識しよう!」と意気込む「詠美」だったが……。
──orz
ベッドの上に置かれたランジェリーを前にガクリと膝を折る。
下着も含めて女物の衣服をまとい、社会人女性として恥ずかしくないメイクをすることなど、正気(しらふ)のままの「詠美」には不可能だろう。
あるいは時間をかければ何とかできるかもしれないが、すでに会議の8時半まであと30分を切っている。情けないが、早速先程の誓いを反故にせざるを得なかった。
「し、下着とお化粧は仕方ないよね……」
それでも気を取り直し、タンスから極力無難なモスグレーのパンツスーツを引っ張り出し、パンツルックなのをいいことにストッキングも省略し、ヒールが低めのバレエパンプスを履いて寮を出ることで、ギリギリ妥協したのだが……。
.......orz
病院の女子更衣室で、ロッカーのナース服と純白のストッキングを前に、もはや下手な抵抗は無意味と悟るのであった。
* * *
さて、朝から無用に精神的な疲労を背負い込むハメになった「彼女」だが、半ばヤケクソ気味に開き直り、こうなったら「太田詠美」になりきって「婦長」としての立場を全うしようと決意した途端、不思議と事が巧く運ぶようになっていた。
ある意味当然だろう。
昨日までの太田「英」美は、若いながらも有能な小児科婦長として上司・同僚・部下・患者のすべてから信頼されていたのだ。
その知識と技能を受け継いだ「詠美」に死角があろうはずもない。
そればかりではない。「彼女」が持って生まれた気配り上手(裏を返せば小心で気にしすぎ)な性格は、看護師という職業にうってつけであった。
そのぶん、能率と規律を優先するであろう本来の「英美」に比べれば(不慣れなことも加わって)、効率性という面ではいくぶん劣っていたかもしれないが、周囲に与える心証の良さは、デメリットを補ってあまりある。
それに、もともと詠一は看護師になりたいという密かな夢を抱いていたのだ。その夢が(一週間限定とは言え)叶ったのだ。張りきらないワケがなかった。
詠美は、日を追うごとに「太田婦長」としての立場に、やり甲斐と充実感を感じるようになっていた。
さらに、いくら諦めて「太田詠美」の立場を受け入れたとは言え、やはりふとした弾みに自分の言動を省みて恥ずかしさを感じずにはいられない。それがまた、傍から見ると、微妙な初々しさを醸し出しているのだ。
おかげで、ナースステーションでは、「詠美」のいない時をみはからって、ナース達は「あの堅物婦長が最近優しい、と言うかなんか可愛い!」「男か? 男でもできたのか!?」とコッソリ噂しているくらいだ。
それら諸々の相乗効果のおかげだろうか。それまでの「英美」は上司として頼られることはあっても、どちらかと言うとプライベートでは敬遠されがちだったのだが……。
「あら、貴女たちも上がり? お疲れ様」
「あ、太田婦長、あたしたち、これからカラオケ行くんですけど、婦長も来られませんか?」
──こんな風に部下ナースたちに誘われることになった。
「うーん、そうねぇ……」
本物の「英美」であれば、角が立たないようソツなく断るところだろう。
しかし、詠美は彼女ほど勤勉でも孤高でもKYでもなかった!
「ありがとう、ご一緒させていただくわ」
「部下との交流も円滑な人間関係には不可欠だよねー」と考え、ニッコリ笑ってOKする。
ノリで誘ってみたものの、まさか了承されると思わなかったのか、一瞬茫然とするナースたち。それでも、さすがに誘いを引っ込めることはせず、恐る恐る詠美も連れてカラオケボックスに行ったのだが……。
「♪つかまえてほしい~」
伸びのあるテノールで、数年前のヒットナンバーを歌いつつ、軽くフリまで入れて見せる。
仕事中とは異なる、意外に遊び慣れた詠美の雰囲気に、皆の緊張も徐々にほぐれていった。
(このあたりは、高校卒業後、看護学校でも一心不乱に優等生を貫き、そのまま就職した英美と、地方の大学へ通うために下宿したのをいいことに、大学生の頃はそれなり遊んだ詠一の違いだろう)
「すごーい、婦長、歌が上手ぅ~」
「あはは……ありがと。さ、次は鈴木さんの番ね。それと仕事中じゃないんだから、「婦長」じゃなくて太田でいいわよ」
おかげで、部下の娘たちとの距離も随分と縮まったようだ。
(嗚呼、なんか、こういうのいいなぁ……)
「詠一」の時も、医者同士で飲みに行くことなどはあったのだが、新米医故の悲しさ、相手は皆先輩で、おまけにかなり高級なクラブの類いに連れて行かれることが多く、「詠一」はどうにも馴染めなかったのだ。
むしろ、今みたいに大人数でワイワイやってる方が性に合っている。
──しかし、この「立場交換」も、予定通りなら明日で終わり。明日の深夜には、ふたりでまたあの店に行かねばならない。
(もうちょっとこのままでもいいのになぁ……)
就職以来、初めてと言ってよいほどの充実した毎日に、つい、そんなコトを考えてしまう詠美なのだった……。
ナーシーズ・サンバ 看護しちゃうヨ♪ 嵐山之鬼子(KCA) @Arasiyama
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