第2話
校門が見えた瞬間、澪は無意識に歩幅を落とした。
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……もう、疲れた……)
まだ教室に辿り着いてすらいない。
それなのに、胸の奥が重く、息が浅い。
通学路を歩くあいだ。
バスでの移動中。
すれ違う人の視線や、何気ない物音ひとつひとつが、じわじわと神経を削っていた。
(人が、多い……)
校門の周辺では、人の流れがいくつも交差している。
「おはよー」
「今日小テストあるって聞いた?」
「ウリィィィィィィィッ!!」
「眠……マジ無理」
「昨日の英語さー、あれ絶対時間足りないって」
「うそでしょ……聞いてない」
「うっせぇ!朝からウザ絡みしてくんな!!」
朝の校門は、思っている以上に騒がしい。
軽い挨拶が飛び交い、笑い声が弾む。
澪はその隙間を縫うように、できるだけ存在感を消して歩いた。
(……目立たないように……)
それだけを考えながら、澪は校門をくぐる。
背中を丸め、視線を落とし、足音が大きくならないよう気をつけて。
校門の石柱が視界の端を流れていく。
「昨日さ、帰り道で猫がいてさ」
「三限目の体育ダルない?」
「推しが尊い……」
「ねえ、あれニュースで見た?」
「先生来る前に課題写させてっ!」
「拾ったの?」
「推しってあのV? また炎上してんじゃん」
「アッチの山の方で、人が襲われたやつ」
「殿は悪くねえっ!!」
「え!駅前のコンビニ潰れるの!?」
「え、マジ?熊?」
「拾ってないよ〜」
どうでもいい会話。
けれど、完全に遮断することもできない。
日常は、何事もなかったように続いている。
噂も、不安も、すぐに次の話題に押し流される。
(自然……自然体で……)
人の流れに逆らわぬよう、周囲に溶け込むように歩く。
視界の端で誰かと目が合いそうになるたび、反射的に顔を伏せた。
誰も自分のことなど気にも留めていない。
それでも、見られた瞬間、場違いな存在になってしまう気がして。
昇降口にたどり着いたとき、ようやく息が漏れた。
靴箱の前は、校門よりも人の流れが抑えられ、ほんの少しだけ安心できる場所だった。
靴を履き替える。
靴箱の扉を閉める音が、やけに響いた気がして、肩が強張る。
(……気のせい、だよね)
自分に言い聞かせながら、廊下を歩く。
廊下は長く、窓が多い。
外からの光が入りすぎて、どこにいても視線を感じる気がした。
中庭に面した場所に、学校で育てているプランターが並んでいる。
美化委員が世話しているのだろう。
元気なものと、そうでないもの。
(……水、ちゃんと足りてるのかな……)
そう思い、近づこうとして───
澪は、はっと足を止めた。
(……だめっ……今は、だめ……)
(変な子に、思われちゃう……)
自分に言い聞かせるように、足を早め、教室へ向かった。
教室には、すでに半分以上もの生徒がいた。
教室に入る際、いくつかの視線が澪に向けられるが、すぐに逸れた。
それが、少しだけ救いだった。
窓際にある自分の席に向かい、静かに腰を下ろす。
(……着いた……)
学校に着いただけなのに、何かをやり遂げたような気がした。
「ねえ、桐原」
背後から声をかけられ、澪の肩が跳ねる。
振り返ると、同じクラスの女子が立っていた。
派手ではないが、表情が明るく、声に迷いがない。
「……え、あ……えっと……?」
名前が思い出せない。
誰?なに?どうして?
思考が一気に絡まる。
「そこ、糸ほつれてるけど。ボタン、取れてない?」
女子は澪の袖口を指さした。
澪ははっとして視線を落とす。
今朝までボタンがついていた箇所。
そこから糸がほつれて、飛び出している。
「……あ、うん……帰ったら、直す……あ、ありがとう……」
「気にすんなし。朝から面倒だね」
慰めのつもりなのだろう。
それでも、澪の胸の奥がきゅっと縮んだ。
(……やっぱり、見られてる……)
女子はそれ以上踏み込まず、「じゃあまたね」と笑って席へ戻っていった。
澪は、しばらく袖口を見つめたまま、動けずにいた。
やがてチャイムが鳴り、ホームルームが始まる。
名前を呼ばれたときだけ、半ば条件反射で返事をした。
担任の声が教室に響く。
連絡事項。
今日の予定。
いつもと変わらないはずの言葉の列が、ただ耳を通り過ぎていく。
椅子に座ったまま、澪はじっと前を向いていた。
肩が、少し重い。
ホームルームが終わり、一時間目の授業に入る。
黒板に書かれる文字を、ノートに写す。
教科書を開く。
手は動いているのに、意識が追いつかない。
(……ちゃんと、やらなきゃ……)
そう思うほど、呼吸が浅くなった。
視線が、無意識に窓の外へ逸れる。
春の光に照らされた校庭の木々が、静かに揺れていた。
その緑が、ひどく眩しく感じられて、澪はそっと目を伏せようとしたとき───
(…………?)
校庭の端。
フェンス際の木々の根元に、白っぽい何かが動いた気がした。
一瞬だけ。
本当に、一瞬。
次に見たときには、何もなかった。
「……気のせい……」
小さく呟いた、その直後。
心臓が、一度だけ強く跳ねた。
「───桐原澪さん」
張りのある低い声が乾いた空気を切り裂いた。
意識を教室に戻すと、教室中の視線が集まっていることに気づく。
「……は、はい……」
教師は教壇に立ったまま、澪を見ていた。
怒っているようにも、笑っているようにも見えない。
それが、余計に重かった。
「今、私が何を説明していたか。言ってみなさい」
澪の頭が、真っ白になる。
黒板の文字が、意味を失った記号に見えた。
沈黙。
「……聞いていなかったのね」
静かな言葉。
けれど澪には、それが胸の奥に直接落ちてくるように感じられた。
「学ぶ意思もなく、ただ座っているだけでは、授業とは言えません」
そう言われた───気がした。
実際に、そこまで強い言葉だったかどうかは、覚えていない。
ただ、
裁かれているような感覚だけが、残った。
「……
教師の視線が、後ろの席へと移る。
「同じ質問です。答えなさい」
「はい」
即答だった。
背筋を伸ばし、迷いなく答える女子生徒。
無駄がなく、正確で、静か。
「……以上です」
教師は一度だけ頷いた。
「結構」
そして、再び澪を見る。
「違いが、分かりますか。桐原澪さん」
その声に、感情はなかった。
分からないなら、考えなさい。
考えられないなら、せめて見ていなさい。
そう言われた気がした。
それで、この件は終わった。
教室は再び動き出す。
まるで、澪一人だけが、取り残されたかのように。
澪は、机の下で手を握りしめた。
冷たい。
自分の手なのに、他人のもののようだった。
休み時間に入り、教室に小さなざわめきが戻る。
澪は席を立たず、机に座ったまま、ノートを閉じた。
さっきまで開いていたページには、途中で止まった文字と、意味をなさない線だけが残っている。
───ちゃんと、聞いていれば。
胸の奥で、そんな言葉が浮かんでは沈む。
「桐原」
今朝、袖口のことを教えてくれた女子生徒が、少し控えめに声をかけてきた。
「大丈夫? さっきの授業、かなりキツそうだったけど……」
心配してくれているのは、わかる。
責める声じゃない。
ただの、気遣いだ。
それでも澪の中では、別の答えが先に立ってしまう。
───授業についていけなかったのは、自分が悪い。
───集中できなかったのも、途中で意識が逸れたのも、自分のせい。
「……だいじょうぶ……」
そう答えた瞬間、喉の奥が、きゅっと締まった。
本当は大丈夫じゃない。だけど───
そう言えるほど、理由が立派じゃない気がした。
女子生徒は一瞬、何か言いたそうに口を開きかけてから、ふっと、柔らかく笑って引き下がった。
「そっか。無理しないでね」
その善意が、胸に残る。
重たく、自分の不出来を静かに照らすものとして、確かに。
星の種の物語 白頭束子 @majonomori
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