星の種の物語

白頭束子

第1話

 桐原澪きりはら みおは、まだ何も知らなかった。


 「───今日、何曜日だっけ……」


 スマートフォンから流れる控えめなアラーム音に、半分眠ったままの声が零れる。

 覚醒しきらない頭の奥へ、その音はゆっくりと染み込み、今日という一日が、もう始まってしまったのだという事実だけを、否応なく伝えてきた。


 「学校……行かなきゃ…………」


 それが本当に自分の意志から出てきた言葉なのか。

 それとも、ただの癖のように口を動かしただけなのか。

 澪には、よくわからなかった。


 重たい感覚を抱えたまま、身体を起こす。

 布団のぬくもりを名残惜しく感じながら、ベッドを降り、

 洗面所へ向かおうとして───


 扉の前で、ふと足を止めた。


 ラックの上に置かれた、小さな観葉植物が目に入る。


 「おはよう」


 そう言って、澪はぎこちなく笑った。


 百円ショップで買った、小ぶりで、緑一色のどこにでもありそうな植物。

 世話は難しくなく、花も咲く。

 それだけで、澪にとっては十分だった。


 「あとでお水あげるから……ちょっとだけ、待っててね」


 部屋を出るときの声は、ほんのわずかに明るい。

 けれど───


 「…………」


 ───心は、重かった。

 顔を洗っても、意識は晴れない。

 朝食を口にしても、満腹感は遠いままだ。

 お気に入りのハコベの歯磨き粉を、少しだけ多めに使ってみても、気分が変わることはなかった。


 お昼は、コンビニの期間限定、桜あんぱんにしよう。

 帰ったら、観葉植物のお世話をして、今夜は作ったばかりのアロマキャンドルを灯して眠ろう。


 そうやって、いくつも予定を並べてみても、気持ちは───


 ───晴れなかった。


 そんな心を引きずるように、

 身体は毎朝のルーティンを、黙々となぞっていく。


 「あれ……」


 洗面所から戻り、自室に足を踏み入れた澪は無意識のまま、いつもの動作をなぞっていた。


 カーテン越しに差し込む朝の光はやわらかく、部屋の輪郭をぼんやりと溶かしている。

 その光を背に受けながら、澪は制服を手に取り、袖へと腕を通した。


 布が肌に触れる感覚は、昨日と変わらない。

 サイズも、重さも、匂いも。


 それなのに───


 胸の奥に、わずかな引っかかりが残った。


 「あれ……?」


 言葉にするほどでもない。

 はっきりとした理由も、形もない。

 けれど、確かに「いつもと違う」と感じる何かが、澪の動きを止めていた。


 袖口のボタンが、縫い目のほつれた糸から、心許なくぶら下がっている。


 「……帰ったら、直さなきゃ」


 引き出しからハサミを取り出し、ほつれた糸の根元に、そっと刃を当てる。


 そのとき、ふと、思った。


 「───わたし、みたい……」


 細く、伸びきった糸は、ほとんど抵抗もなく、ぷつりと切れた。

 落ちたボタンが、短い音を立てて床に転がる。


 澪は、しばらくその音の余韻を追っていた。

 切れてしまった糸。

 役目を失ったボタン。

 それらを拾い上げることもせず、ただ立ち尽くす。


 胸の奥に、言葉にならない何かが溜まっていく。

 直さなきゃ。

 帰ったら。

 そう思うだけで、今はそれ以上、何も出来なかった。


 ───それでも。


 時間は、待ってくれなかった。


 時計の針は淡々と進み、

 窓の外の朝は、何事もなかったかのように明るくなる。


 澪は小さく息を吐き、

 床に落ちたボタンから視線を逸らした。


 考えるのは、後でいい。

 今は、とにかく───


 制服を着終え、

 身だしなみを確認するため、姿見の前に立つ。


 「多分、大丈夫だよ、ね……変なところもない、よね……」


 誰かに求めるように呟きながら、視線を上から下へ動かしていく。

 寝癖や服の皺を整え、最後にもう一度呟いた。


 「目立って……ないよね……」


 姿見に映る少女は、俯きがちだった。

 癖の無い黒髪は肩口で揃えられ、前髪はやや重たいが清潔感はある。

 化粧はしておらず、薬用リップを塗るだけ。

 制服は学校指定のものをそのまま着ていて、アレンジもない。

 膝丈のスカートの下には、黒のストッキングで肌を隠している。


 全体としては、ごく平凡で、目立たない。

 ───そのはずだった。


 「……ちょっと……キツくなってる、かも……」


 澪は視線を落とす。

 低身長には不釣り合いな胸元が、制服をわずかに押し上げていた。


 どれだけ地味に振る舞っても、そこだけは隠しきれない。

 視線を集めてしまう。


 「お姉ちゃんに、言って……新しいの、買って貰わなきゃ……」


 短く呟き、身だしなみチェックを切り上げる。

 机の上のリュックに視線を移した。


 「教科書……ノート……筆箱……」


 不安を打ち消すように、声に出しながら中身を確かめる。

 一つずつ確認して、ようやく息をついた。

 身支度を終え、なるべく軽い足取りを意識して───


 「じゃあ行ってくるね」


 小さな観葉植物にそう声をかけ、部屋を出る。

 扉の向こうでは、足音を殺し、気配を消すように玄関へ向かった。


 (お水もあげた。洗い物もした。電気と水道も大丈夫……)


 確かめる。

 ただ、それだけで不安を追い払うために。


 震える手を、玄関の扉に掛ける。

 扉の先の世界を映すかのように、ドアノブは冷たかった。


 「……行ってきます」

 

 誰にも届かないほど小さな声で発した言葉は、扉の軋む音に、あっけなく呑み込まれた。


 ドアが閉まり、部屋と外の境界が断たれる。


 (眩しい……)


 マンションの廊下に出た瞬間、白く反射する朝の光に、視界が滲む。

 軽い目眩がして、思わず足を止めた。


 息を吸う。

 吐く。


 「……頑張らなきゃ……」


 誰に聞かせるでもなく、それでも声に出さなければ、立っていられない気がして。


 一歩、踏み出す。


 足音が、やけに大きく響いた。


 (頑張って……頑張って………それで……)


 泣かないように。

 挫けないように。


 ちゃんと、歩けるように。


 「生きて……いかなきゃ……」


 その言葉は、自分を励ますためのものなのか、それともただの確認なのか。


 孤独な少女は、まだ何も知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る