第3話: 「後輩の沈黙が怖い」
あの夜から、数日が過ぎた。そして――理由はうまく説明できないが、涼司ははっきりと感じていた。何かが、違う。
学校で、芽衣の姿をほとんど見かけなくなった。背後から聞こえてくる声もない。突然のからかいもない。校舎を出るときに、後ろをついてくる足音も。
「……変だな」廊下を歩きながら、涼司は小さく呟く。
視線が自然と動く。右、左、前。いつ悪戯を仕掛けられてもいいように、身構えてしまう。だが――何も起きない。
そのまま無意識に階段を下り、気づけば芽衣のクラスの前に立っていた。そして、彼女を見つける。
芽衣は席に座り、ひとりだった。腕を組んだまま、机に頭を預けている。教科書は机の下に押し込まれ、まるでどうでもいいもののようだ。周囲では、クラスメイトたちが話し、笑い、行き交っている。――彼女だけが、動かない。
涼司は一瞬、立ち止まる。(……入るべきか?)
だが、次の瞬間には教室へ足を踏み入れていた。軽い足取りで歩き、彼女の机の横に立つ。
「芽衣」声を低く抑える。余計な注目は集めたくなかった。
返事はない。
「……芽衣?」
顔を覗き込もうとした、その時。
「……すぅ……」かすかな寝息。
「……寝てるのか」
こんな姿、見たことがない。しかも、学校で。違和感が胸を刺す。
「芽衣、起きろ」
彼女はわずかに動いた。腕がずれ、頭が横に傾く。「んー……お母さん……あと五分……」
リオジは信じられないというようにまばたきした。
「……はいはい、五分な」皮肉っぽく言いかけて、途中で止まる。「芽衣。ここは学校だ」
「あぁ……」
ゆっくりと伸びをしながら、欠伸をする。「もう……お母さん、もうちょっと寝かせてよ……」
教室の照明は暗めだった。完全に目が覚めるには、少し足りない。
「おはよう、お母さん……」舌が回らない声で続ける。「ぐっすり眠れたよー」
涼司は呆然と彼女を見る。どうやら、まだ状況を理解していないらしい。
「はいはい、よく眠れたな。ほら、起きろ」
「んー……でもあんまり寝てない……」
「見れば分かる」
「じゃあ、まだ寝る……だから帰って……」
半分閉じた目が、ゆっくりと彼に向く。「……それにしても、お母さん……喉痛いの? 声、変だよ……」
一秒。
二秒。
芽衣は、目を大きく見開いた。「……せ、先輩!?」
勢いよく体を起こし、髪は完全に乱れている。慌てて両手で整えようとするが、逆にさらにぐちゃぐちゃになった。顔は真っ赤だ。
「な、なんでここにいるんですか!?」
涼司は腕を組む。「まず一つ。授業中に寝るな。夜に寝ろ」
「うぅ……ごめんなさい……」小さくぼやく。
「夜、あんまり眠れなくて……」
「関係ない」
真剣な、鋭い視線。芽衣は少しだけ身をすくめる。
「学校では勉強だ」
「は、はい……もう寝ません……」
そして、涼司は本題に入る。「お前が消えた理由を聞きに来た」
その言葉が、胸に刺さる。心臓がきゅっと縮み、胃の奥で何かがざわつく。
芽衣は立ち上がり、素早く彼に近づいた。
「……へぇ?」明るい笑顔が浮かぶ。
「先輩、そんなに私が恋しかったんですか?」身を寄せ、からかうように。
「私の柔らかい体、触れなくて寂しかったとか?」
涼司は目を閉じる。こめかみに血管が浮かぶ。
(……我慢だ)
「誰が」低い声で。「それに、ここでそんなこと言うな」
芽衣は、彼の周りをゆっくり回る。観察するように。視線は相変わらず大胆で、挑発的だ。
「でも、探しに来たんですよね?」
「……なんで周りをうろつくんだ」
「答えてください、先輩」
彼の正面で止まる。「探しに来たんですか? それとも違いますか?」
涼司は拳を握りしめる。否定できない。「……ああ」
小さく吐き出すように。「お前が姿を見せないからだ。俺の頭が……暇になりすぎた」
芽衣の瞳が、ぱっと輝く。まるで、太陽が味方しているかのように。
「……なるほど」声が低くなる。
「じゃあ、先輩の頭の中は……私を欲してるんですね」指先を落ち着きなくいじりながら、答えを待つ。
「……そんなこと言うな」
涼司の視線は、真剣すぎるほどだった。「もし一瞬でもそうなったら……俺の人生、終わる気がする」
芽衣は、小さく笑った。まさに、予想通りの答え。
「そこまで認めるの、難しいんですか?」
涼司は、わずかに口元を緩める。だが、それは安心した笑みではない。「……まあ、元気そうで何よりだ」
踵を返す。「もう行く」
数歩、出口に向かう。
「せ、先輩!」芽衣は腕を伸ばすが、触れはしない。
「どこ行くんですか!?」
「自分のクラスだ」一瞬だけ立ち止まり、振り返らずに言う。「俺が恋しいなら、放課後まで我慢しろ」
そう言い残し、彼は教室を出た。芽衣を、完全に置き去りにして。
彼女は、その場から動けなかった。足が、床に張り付いたように重い。視線を落とす。両手が、かすかに震えているのが分かった。
「……あんな言い方……」声が、喉の奥で掠れる。「そんなこと……言われるなんて……思ってなかった……」
涼司が一年生の教室を出ると、廊下でクラスメイトと鉢合わせになりかけた。
「おっと、涼司。またこの階か? まだ一年の後輩のところ?」
涼司は小さく息を吐く。「別に。誰かを追いかけてるわけじゃない。」
「はいはい。」相手は苦笑しながら肩をすくめる。「でもさ、二年がいつもここにいると目立つんだよ。」
「一年差だろ。大げさだ。」
それだけ言って、もう階段へ向かっていた。
「分かった分かった。」頭を掻きながら、まだ笑っている。「ま、頑張れよ。」
返事はない。涼司の背中は、すでに踊り場の向こうに消えていた。
放課後。授業が終わり、涼司は校舎を出る。歩く速度は遅い。手には、開いたままのノート。門を少し過ぎたところで立ち止まり、手すりにもたれながらページに目を落とす。
数字。数式。意味を成していない記号の列。
「……分からない。」小さく呟く。「去年の範囲なのに……」
余計に腹が立つ。ページを追っても、理解できる箇所はほとんどない。
「……認めたくないけど。」
一瞬、言葉が詰まる。「芽衣なら……教えられるかもしれない。」
その名前を思い浮かべた瞬間、涼司は強く目を閉じた。胸の奥が、きゅっと縮む。――すぐそばで聞こえた気がした。
『あはは、先輩~。こんなのも分からないんですか?』芽衣の声。鮮明すぎるほど、はっきりと。
『それとも、わざと赤点ですか?後輩と一緒にいる時間、増やしたいとか~?』
「……違う。」
思わず、首を振る。胃の奥が不快に締め付けられる。助けを求めたい気持ちが、一気に冷めていく。
「無理だ……」
小さく、吐き出す。「家で教えてもらうなんて……」すると、今度はもっと低い声が――
『せ、先輩……』
『そんなに私のこと好きなんですか?一晩中、二人きりで……』
背筋に、冷たいものが走る。脚が固まり、指先が震え、ノートが滑り落ちそうになる。
「……やめろ。」勢いよくノートを閉じ、鞄に押し込む。「考えたくない……」
顔を上げた、その時。芽衣が、出口へ向かって歩いていた。
――違う。
歩幅が速い。硬い。視線は下を向いたまま。肩紐を握る指に、力がこもっている。
「芽衣――」
呼びかける前に、彼女は横を通り過ぎた。視線も合わない。立ち止まらない。言葉もない。
涼司は、その場に立ち尽くす。ゆっくり振り返り、遠ざかる背中を目で追った。
(……違う)
(あれは、俺の知ってる芽衣じゃない)
はっきりとした違和感。説明できないのに、確かに感じるもの。
(……知りたい)
(このままじゃ、終われない)
芽衣が人混みに消えた、その瞬間。ポケットの中で、スマホが震えた。画面を見る。
芽衣:
『ごめん、涼司。さっき気づかなかった。何か用事あった?』
涼司の眉が、わずかに動く。
「……ありえない。」小さく呟く。
「こんなの……芽衣じゃない。」
指が止まる。打って、消して、また迷う。
涼司:
『い……いや、別に。何でもない』
送信。
すぐに返事が来た。笑顔の絵文字。――なのに。どこか、貼り付けられたように見えた。
涼司は画面を見つめ、ゆっくりとスマホを消す。「……どうしたんだよ。」
誰にも届かない声。「そんな顔、見たくない……」
頭の中で、思考が静かに、しかし確実に回り始めていた。
俺の後輩はいつも「好き」って言ってくるけど、どう考えてもからかわれてる @RenjiKaze
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