第5話:深淵からの呼び声

第5話:深淵からの呼び声


大田区の町工場に、凍り付くような沈黙が流れた。 換気扇の回る虚しい音と、サーバーラックの排熱ファンだけが、静寂をかき消している。


「……何だ、これ。バグじゃないのか」 アルの手が、キーボードの上で止まっている。眼鏡の奥の瞳が、これまでにないほど細く見開かれていた。


モニターに映し出されているのは、月の裏側。九条財閥の巨大魔法衛星『ゼウス』が「聖域」として秘匿し、地上の誰もが見ることを許されなかった禁足地だ。アークエッジ・スペースの十一号機から二十号機――量産された「安価で大量の目」が、死角を縫うようにして捉えたその映像は、あまりに冒涜的だった。


「……バグであってほしかったよ、アル」 福代は、モニターの表面を指先でなぞった。指先に伝わるのは、液晶の微かな熱。しかし、心臓を支配しているのは、冷たい悪寒だった。


映像の中、月の静かの海を侵食するように、赤黒い、粘着質な「何か」が脈打っている。それは魔法の廃液と、宇宙の塵が混ざり合い、意志を持ったかのように増殖する怪物――**『魔力汚染体(マナ・キャンサー)』**だった。


「ひでえな……」 ゲンさんが、握りしめたスパナを床に落とした。乾いた金属音が工場に響く。 「九条の連中、自分たちの魔法出力を上げるために、出たカスを全部月の裏側に捨ててやがったのか。……ゴミ箱にしてやがったんだ、自分たちの聖域を!」


「……それだけじゃないわ、ゲンさん」 恵が、解析データを次々と表示させる。 「この汚染体、月の岩石を喰って増殖してる。魔法エネルギーという猛毒を栄養にして……。見て、この成長速度。このままじゃ数ヶ月で月の裏側を覆い尽くし、その重力バランスを崩しかねない」


『……福代、聴こえる……?』 通信の向こうで、セラの声が震えていた。これまでにないほどの恐怖と、絶望が混じっている。 『……私の観測所まで、あと数キロ。怪物の「根」が、月の大地を砕きながら迫ってきているわ……。九条は、この存在を知っていた。知っていて、隠蔽するために「聖域」として封鎖したのよ』


「……独占のツケを、月とセラに払わせるつもりか、九条院」 福代の奥歯が、ギリリと音を立てた。 怒りで視界が赤く染まる。九条院が語った「宇宙の美しさ」とは、裏側にゴミを隠しただけの、血塗られたハリボテだった。


「アル! 汚染体の座標を全世界に公開(オープン)しろ。九条のサーバーを通さない、アークエッジの独自網ですべての衛星画像をライブ配信するんだ!」


「正気か!? そんなことをしたら、九条は総力を挙げて僕たちを消しに来るぞ! 通信法違反だの、魔法安全保障だの、理屈なんていくらでも作ってくる!」


「消される前に、事実を突きつけるんだ!」 福代はデスクを叩いた。 「彼らが誇る一枚数千億円の魔法レンズには、不都合なものは映らない。だが、僕たちの一枚数万円の安物のカメラは、真実しか映さない。……大量の『目』がある今、宇宙に隠れ場所なんてないんだ!」


「……やってやるよ。クソったれな魔法使いどもの、化けの皮を剥いでやる」 アルが狂ったようにタイピングを始めた。工場の全てのモニターが、月の裏側の醜悪な姿で埋め尽くされていく。


その時、工場の外で、空気を引き裂くような高周波の音が響いた。 鼻を突くオゾンの臭い。窓の外、夜空に九条財閥の紋章を刻んだ、純白の迎撃魔法騎士団が滞空している。


「……早いお出ましだな。恵、全衛星の配信権限を分散型ネットワーク(P2P)に移行! 僕たちが殺されても、映像が止まらないようにしろ!」


「完了しています。……社長、九条院から直接通信が入っています。繋ぎますか?」


「ああ」


モニターの一つが切り替わり、九条院の冷徹な顔が映し出された。背景には、贅を尽くした魔法議事堂。 『……福代君。余計なものを見たね。知らぬが仏という言葉を知らないのか?』


「九条院。あの化け物はなんだ。月の生態系を、セラを犠牲にしてまで守るべき利益とは何だ!」


『……文明の進歩には、必ず影が伴う。あの汚染体は、人類が魔法という火を手に入れた代償だ。我々が適切に「管理」している。君のような素人が、パニックを煽るような真似をするな』


「管理だと? 放置しているだけじゃないか! 月が泣いている。僕の衛星には、セラの悲鳴が届いているんだ!」


『……不快だな。ゴミ(超小型衛星)を集めて、神の視座を得たつもりか。……騎士団、排除せよ。アークエッジの地上拠点を、魔法汚染源として焼却処分しろ』


九条院の言葉と同時に、窓の外の騎士団が魔法杖を掲げた。 「……ゲンさん、シェルターへ!」


「バカ言え! 俺がこの衛星たちを守るんだ!」 ゲンさんが、工場の扉を閉ざし、物理的な防壁を展開する。


魔法の閃光が工場を直撃する寸前、福代は叫んだ。 「九条院! お前の魔法は、一箇所しか照らせない。だが、僕の科学は、一万の場所からお前を監視している! 今、この瞬間も、世界中の人々がお前の『ゴミ箱』を見ているんだ!」


轟音。衝撃。 魔法の火花が散り、サーバーが悲鳴を上げる。 しかし、大田区の古びた町工場から放たれた「真実の映像」は、すでに魔法の結界を越え、世界中のタブレット、スマートフォン、そして人々の心へと、取り返しのつかない速度で流れ込んでいた。


『……福代……光が……見える……』 セラの声が、ノイズの向こうで微かに響いた。 『……あなたの衛星たちが……汚染体の影を……暴き出している……。月が、呼吸を始めたわ……』


立ち込める煙の中で、福代は血の混じった唾を吐き捨て、倒れかけたモニターを支えた。 「……さあ、九条院。これからが、本当の『計算』の時間だ」


世界が、初めて宇宙の「傷跡」を知った夜。 福代孝良と、九人の、そして一万の星たちの反撃が、本格的に幕を開けた。


第6話「月と地球の密約:科学と魔法の共存」へ続く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る