うつくしい世界

 初めて彼女と出会った時、彼女はビルの向こうの空を探していた。

「空を探しています」

 歩道橋の上、茶色い粉が舞う汚れた空を見上げながら、彼女は言った。

 もう、この世界は汚染され尽くしていて、美しい空に思いを馳せる人など一人もいるはずはなかった。

 肩ほどで切りそろえた黒髪の少女「ユタカ」が、ぼんやりとその空を眺める少女に「何をしているのか」と声をかけた。

そして返ってきた言葉に首を傾げる。

「空……?それなら……」

 今見ているのでは、と口を開きそうになったユタカは言葉を噤んだ。

 ユタカは少女の事を知っていた。

 隣のクラスに在籍すると言う盲目の少女「ブラン」だ。

 彼女はその透き通るような白い肌に金色の髪が美しいことで、ちょっとした有名人だった。

 ユタカはその彼女の容姿と自身のとを比べて、思わずまるでケロイド状に爛れた自らの頬を撫ぜた。

 その醜い容姿は決してユタカだけが特別なわけではなかった。

 西暦四千年。

 人類は、自らの手によって汚染し尽くした大地からとうとう断罪される時が来たのだ。

 大気は汚れ、景観の全てはまるで地獄のようになり、人類は未知のウィルスに苛まれるようになった。

 もはや、産まれてくる新生児の九割ほどは、身体に何かしらの障害を持って産まれてるのが当然だった。

 四肢の欠損や皮膚の爛れ……その程度は違うが症状を背負って生きていくのが、もはや当然で、ユタカ自身もその一人だった。

「空って言うのはとても美しい色をしているのでしょう?青色?と言うのでしたよね」

 ブランは何も映さないであろう焦点の合わない瞳をユタカに向けると笑った。

 この世界において、彼女の場合は特別であった。

 まるで昔の本や映像に出てくるような美しい容姿をしていた。

 四肢もあれば、肌に異常も何もない。

 だが、神は二物を与えないとはよく言ったもので、その代償として、彼女は生まれつき視力が無かった。

 だから、この世界を見たことがないのだろう。

 この、醜い世界を。

「……うん、そうだね」

 真実を伝える必要など無いだろう、それもまた幸福であるはずだ、とユタカは自分を視覚的には見えていないとは分かりつつも、思わずブランの視線から目を逸らしつつ、曖昧に答えた。

「あぁ、私はいつかこの世界を見てみたいです」

 それがユタカとブランの出会いだった。

 初めてブランと出会った時、彼女は空を探していた。


 それから、二人の交流は始まった。

 元々、ユタカはそれほど人付き合いを得意とする訳では無かったが、所謂お人好しであった。

 この様な世界となってから、人々は身勝手な行動をとる様になっていた。

 極限状態であるのだから、心に余裕が無いのも仕方ないことだった。

 だが、ユタカは世界が薄汚れてしまおうとも、自身の心までは穢したくはないと言う高潔な思考の持ち主であった。

 その為、何処か世間知らずとも言えるし、純粋無垢に見えたブランを放っておけなかったのである。

 学校の廊下、彼女のその美しい容姿は良く目立っていた。

 少し離れていたが、声をかけるかかけまいか、と遠巻きに眺めている時だった。

「あっ」

 ユタカは思わず声を上げた。

 ブランがその場で転倒したのだ。

 それも、躓いてしまった、だとか自己責任ならまだしくも、すれ違い様に他の生徒に足をかけられていた。

 生徒の鋼鉄の義足に脛をやられたブランはその場で上手く受け身も取れずに盛大に転倒した。

「くすくすくす……」

 二人連れの生徒はその様子を見ると満足そうに笑い歩きを進める。

「ちゃんと前見て歩けって話よね、あ、見えないんだったっけ」

 すれ違いざま、二人の生徒はそうブランを笑っていた。

 その言葉を聞いてか聞かずが、ブランはその場に暫くうずくまる様にしていた。

 すれ違ったその生徒もやはり爛れた顔をしていた。

 自分よりも美しい彼女にやっかみや嫉妬を覚える人は少なくはない、いや、むしろこの世界の大半がそう感じるだろうと言うことは想像に容易かった。

 ユタカはその場に膝をつくブランに急いで駆け寄ると「大丈夫?」と声をかけた。

「あぁ……どうもありがとう貴方。えっと、確かお名前は……?」

 ユタカの手を取り状態を起こしたブランは彼女の声を覚えていた様で、礼を言いつつも首を傾げていた。

「ユタカ、だよ」

「どうもありがとう。ユタカさん」

 ブランは顔も怪我していた様で、その鼻からは赤い血が一筋流れていた。

「……これ、良かったら使って」

 そう言うとユタカはブランの鼻元にハンカチを持っていき、その血を拭き取った。

「ふふ、ごめんないね、私っていつもこうなんです」

 そう言うとブランは自嘲する様に軽く笑った。

「……よく転ぶの?」

「えぇ、笑ってしまいますよね」

「そう……」

 ユタカは笑えなかった。

 彼女が普段から先ほどの様な目に遭っているのだろうと言う光景を想像してしまったからだ。


 それから二人は行動を良く共にする様になった。

 ユタカ自身の目の届く範囲では、ブランに人の悪意に触れさせたくなかったのである。

 過ごして見て分かったが、ブランは知的好奇心旺盛であった。

「コーヒーと言うのはおかしな色をしていると聞いたことがあります」

 薄汚れたカップをテーブルに置いたブランが口に広がるコーヒーの香りを堪能しつつそう言う。

「そうだね、うーんと、黒って言って変な色かも」

 その優雅な一挙手一投足を見ながら、ユタカは答えた。

 この汚染された世界においてコーヒーは必需品とも言えた。

 飲料水などひどい味で飲めなくなったこの時代において、その味を誤魔化せる飲料としてコーヒーは最適だった。

「それに、ティーカップにも美しい造形が施されているのだとか?」

 ブランはカップを撫ぜながらその隆起を指で確かめている様だった。

 その色は何処かくすんでおり、表面の凹凸は装飾などでは無く、粗悪な生産環境による質の乱れからなる物だったが、ユタカは、またそれについての真実を言うことなど出来るはずもなく「うん」と曖昧な返事を返すしか無かった。

 彼女はこの世界で生きるにはあまりにも純粋無垢であった。

 聞いた話によると幼い頃に両親とは死別してしまったらしい。

 だからだろうか、把握しているこの世界の実情は何処か歪だった。

 もう空は青くないし、草花も綺麗などでは無い。

 けれど、ブランはそうと信じて疑っていない様子だった。

 周りの人が彼女に真実を教えそうな物だが、とユタカは考えたが、彼女がこうして醜い世界を美しいと信じる様子さえも薄気味悪い笑みを浮かべて笑いものにしている人々が居るのかもしれない、と思うとユタカはそれについて言及が出来なくなってしまった。

 最も、自身も彼女に真実を伝えれないのなら同罪だ、と言う後ろめたさもあった。


 ある日の事だった。

「海に行きたいです」

 ブランがそんな事を言い始めた。

「海、か」

 それは人々にとって、あまり良い場所と言える物では無かった。

 そこまで水質が汚染されていると言う訳でなくとも、その茶色い海水は深層心理で嫌悪感を与えたからだ。

 それに、ブランとは違い、多くの人が持つ爛れた皮膚は海水の刺激により苦痛を伴う。

 もう、海を泳ごうと考える人など居なかった。

「えぇ、一人だと危ないと思うので行ったことがなくて……ユタカさん、一緒に来てくださりませんか?」

「うん……じゃあ、行こうか」

 だが、ユタカは彼女の好奇心を咎めようとはせず、その心を満たそうとした。

 二人で連れ添い、手を繋ぎユタカがそれを引く。

 それが、今の二人の日常だった。

 海に着くとブランはその独特な香りに「変な匂いがしますね」と言うと笑った。

「あぁ、どこまでも広がる海と言うのをユタカさんと見て見たかったです」

 ブランの焦点の合わない瞳は、その嫌悪感を覚える海の方へ向いている。

「そうだね」

 なんとも、それがバツが悪い気がして、ユタカは視線をブランの方から海へと向けた。

 やはり、広がるその景色を綺麗だとは思えなかった。

 と、そう考えていた時に、横からパサ……と何か布の衣擦れの様な音が聞こえて思わずブランを振り返る。

「えぇ……!何してるの?」

 ブランはそのセーラー服を脱ぎ捨てると、白い下着と痩せさらばえつつも美しい肉体を露わにしていた。

「泳ぎましょう?」

 そう言うとブランはユタカの手を強めに引いた。

 周りに人は居ないし、こんな所に近寄る人も当然居ないはずだ、だが……とユタカは躊躇する。

 あの海に入った瞬間、この皮膚は耐えがたい苦痛に苛まれると言うのを分かっていたからだ。

 だが、ブランの楽しそうな笑顔を見ると、ユタカは拒否する事など出来なかった。

 ゆっくりとした動作で、彼女もまた制服を脱ぐ。

 その下には生まれつき、未だに痛みと腐敗を続ける皮膚が広がっていた。

 治療をしようとも、この痛みが完全に完治することはない。

「さぁ、行きましょう」

 ブランは傷ひとつない肉体を活発に動かし、海へと小走りで向かう。

 先行する彼女に続いてユタカも海へと足を踏み入れるが、やはり、その瞬間、刺す様な痛みが広がった。

「っつ……!!」

 思わず苦痛に叫びそうになるがそれを堪える。

「きゃあ!ふふ、冷たいですね!」

「まだ春だからね」

 だがそれを悟られない様にブランの調子に合わせた。

「うふふ、次は夏に来ましょうね」

 と、彼女は茶色い海水に、その白い肌を浸しながら笑った。

「えいっ」

 と、直後、ブランは両手で海水を掬うと、ユタカめがけて軽くかけた。

 彼女なりの悪戯な行動だ。

「っっつ……」

 一際大きな痛みを伴いつつも、ユタカは「やったね」と笑うと、彼女を真似して軽く海水をブランにかける。

「きゃあ!うふふ、ユタカさんこそっ」

 それから二人は、まるで幼子の様に海水で遊んだ。

 やはり、他に人の気配などはなかった。

 酷い痛みと苦痛だったが、それでもユタカは楽しいと思えた。

 ユタカは夢想する。

 美しい砂浜、透き通る様な海、そこに立つシミひとつない肌をした自分とブランを。

 それが叶わないとは分かりつつも、ブランの脳裏に描く光景はきっとそう言う物なのだろう、とユタカは思った。


 それから何度か季節が巡った頃だった。

 ブランはさらに美しい容姿へと成長をしていた。

 それと比例する様にユタカの爛れは更に酷くなる一方だ。

「私、目の手術を受けようと思います」

 ブランのその一言にユタカは背筋がまるで凍る様な感覚を覚えた。

「えっと……」

 返す言葉が見つからず、口が詰まってしまった。

 真実を彼女は知るのだろうか、けれど、誰がその自由を否定できるのだろう、とユタカは思った。

 視力の無い彼女に、そんな事はしなくて良いとは言えなかった。

 だれもその自由を奪う権利などないのだから。

「難しい手術だそうですけど、やっと決心がつきましたから」

「…………」

「ユタカさんのおかげです」

「私の?」

 その言葉にユタカは反射的に思わず聞き返してしまった。

「はい、私、貴方と同じ世界を見たいです、そして同じ日々を送りたい……どうでしょうか?」

 ブランはそう言うと恐る恐ると言った様子でユタカへ不安そうに首を傾げた。

「……良いと、思うよ」

 それは実質の別れを意味する様にユタカは感じた。

 この世界をブランに見せたくない、そして醜い私は、きっと彼女の側にいることはもう許されない、様々な感情がその胸の内を渦巻いた。

 彼女はこの自身の姿を見てどう思うのだろう、化け物と怯えるのだろうか、それとも……

 とにかく、もうブランとはこれまでの関係では居られない、それをユタカは確信していた。

「私、頑張りますね」

 ブランはそう言うと満面の笑みを向ける。

 ユタカは、もう二度と見れなくなるかもしれないその笑みを脳裏に焼き付けようと大切に記憶の中にしまった。


 ブランが手術を受けてから半年ほどが経った。

 手術は成功した様で、それからは彼女は目に包帯を巻いて過ごしていた。

 ユタカはいつもよりも甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いた。

 それは、ブランが病人だからと言うだけではなく、自身が彼女の側で過ごせる最後の時間を大切にしたいからだった。

「今日、包帯を外して良いとお医者様から許可が出ました」

 そう言うとブランの頼みで、二人は再び海に来ていた。

 まだ夏の少し手前であったが、前に来た時よりかは幾らか快適な気温だった。

 海のひんやりとした冷たさとジメジメとした熱さが程よい均衡を保つ。

 ブランはその包帯の向こうの瞳を海に向けると「どうぞ……」とユタカを促した。

 その包帯はユタカに取って欲しい、との事だった。

 ユタカは緊張した手つきで、それを取り外す。

 何も言葉をかけることは出来なかった。

 この世界の真実を隠す自分を知った時に、ブランがどう思うのか、それが怖かった。

 軽い音を立てて、包帯が砂浜に落ちる。

 ゆっくりと、ブランは目を開けた。

 少しだけ違和感があるのか、その瞳を薄めたり、瞬きしたりを何度かすると、慣れたのだろう、瞳を見開き海を見た。

「……!」

 そして、息を呑んだ。

 ユタカは罪悪感に苛まれながらも、ブランの背後から、わざと視界に入る様に海を背に正面へ回った。

「……ごめん、黙ってて」

 二人の瞳の視線が交差する。

 初めて、本来の意味で目が合った気がした。

「実は、世界はブランが思うほど美しくないんだ、そして私も……」

 その目には涙が浮かんでいた。

 ブランは暫くユタカと、その荒廃した様な海とを見やった。

 彼女が何を感じているのか、想像するのが怖かった。

 思わず、その表情を見ていられなくなり、目を伏せる。

 ブランはこの瞬間、初めて世界の真実を知った。

 そして、微笑すると「いいえ」と首を横に振った。

 ユタカは思わず顔を上げる。

 二人の視線が再び交わった。

「ユタカさん、綺麗です」

「何を……」

 そしてブランは言った。

「やはり、私の思った通り、美しい世界ですよ」

 波の打ち返す音はいつまでも、彼女の探していた空に響いていた。

 

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短編集「有象無罪・うつくしい世界」 @Lycoris0911yuri

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