四の間
声を上げることもなく、ただ肩を震わせ、子供のように両手で顔を覆って。
そして僕は見てしまった。
彼女の目からこぼれ落ちる透明な雫が、地面に触れた瞬間に形を変え、波紋となって、この凄まじい雨へと溶けていくのを。
彼女は相変わらず雨には濡れていない。彼女だけが乾いた空白の中にいる。
いや、違う。
彼女から溢れ出したものが、この世界の雨になっているんだ。
「……鈴木、さん」
僕の声は、雨音に塗りつぶされて届かない。
彼女は自分の涙が世界を濡らしていることなんて気づきもせず、ただ自分自身の孤独に溺れているようだった。
あちらの世界で、彼女は何を言われたのだろう。
何かをされたのか。何かあったのか。
考えが巡る。
僕は、彼女に駆け寄ろうとして動けなかった。
この出会いが彼女の悲しみそのものだとしたら。
僕が彼女を慰め、その涙を止めてしまったら。
僕は初めて、自分の大好きな「雨」が、これほどまでに残酷なものだったのだと知った。雨を嫌いな人の気持ちが少し分かったような気がした。
叩きつける雨のカーテンを割り、僕は彼女へと足を踏み入れる。一歩越えた瞬間、耳を刺すような水音が遠のき、静寂が僕たちを包み込む。
「……鈴木さん」
震える声で呼ぶと、震える肩を手で抱き抱えた。必死に雨を押さえるようにするそれはいつもの彼女とは違った。
ゆっくりと顔を上げる。
真っ赤に腫れた瞳。その奥にある絶望の色を見て、胸が締め付けられる。彼女は僕の顔を見ると、笑顔を見せた。いや、作った。
「……早かったね……」
「どうしたの、一体」
「……なんの事」
「何って……」
僕のその言葉が悪かったのか彼女の目が赤くなった。
必死に隠す彼女。抑えをなくした肩はまた揺れた。
「どうしたの?」
濡れない彼女はこの世界の何よりも水浸しに見える。
しばらく彼女は何も答えなかった。
雨に混じって深呼吸のようなものが聞こえた。
「……わかっちゃったの。私がここに来る時、いつもあっちでは……嫌なことがあった時だって。私が泣くと、この世界に繋がっちゃうの。私が、君の世界をめちゃくちゃにしてるの……」
彼女は自分の手を見つめ、怯えたように震えている。
「……めちゃくちゃになんて、なってないよ。むしろ僕は君を待ってたんだ」
溢れ出しそうな愛おしさを込めて、僕はそう言った。彼女に笑ってほしくて、今の状況を肯定したかった。けれど、その言葉が彼女の水溜まりに落ちた瞬間、彼女の瞳から温度が消えた。
「……待ってた?」
低く、地這うような声。彼女の手が、伸ばす僕の腕を乱暴に振り払った。
「私が、あっちで死にたくなるような思いをして、必死に泣いて……その結果降る雨を、君は待ってたっていうの? 私の苦しみが、君には心地いいリズムだったの?」
「違う、そんな意味じゃ、」
「同じだよ! 柏木くんは、結局『雨』が好きなだけ。私の涙が雨になるなら、私がずっと泣いていればいいって思ってるんでしょ?」
彼女の叫びに呼応するように、空白の外側の雨脚がさらに激しさを増す。バリバリと空を割るような音がして、彼女の世界が少しずつ狭まっていく。
「最低だよ……。柏木くんは、孤独を愛してる格好いい人なんかじゃない。ただ、他人の痛みがわからないだけの人だ。私の名前も、本当は聞こえないんじゃなくて、聞く気がないだけなんじゃないの!?」
激しい拒絶の言葉が、僕の胸を刺し貫く。
図星だった。僕は彼女を慰めるつもりで、自分のエゴを押し付けていただけだ。彼女がどれほどの痛みを抱えてこの雨を降らせていたのか、その深淵を僕は想像すらしていなかった。
彼女はまた顔を覆って、その場に崩れ落ちる。
ごめん、と言いたかった。でも、今の僕の言葉は、彼女にとっては雨をさらに強くする毒でしかない。
ごめん等という何もこもらない言葉じゃなくてもっと何か。
「……そうだね。僕は、最低だ」
僕は膝をつき、今度は触れることなく、彼女の目の前に自分の手を置いた。
「君の言う通りだ。僕は君を雨の精霊か何かだと思ってた。自分の退屈を埋めてくれる都合のいい存在だと思ってた。君があっちでどれだけ寂しくて、どれだけ泣いていたのか、一つも分かってなかった」
僕は自分の喉の奥が、熱く引き攣れるのを感じた。
名前を呼ばないことで自分を守ってきた、僕の情けない正体をさらけ出す時だ。
「鈴木さん。僕は、孤独を愛してるんじゃない……」
言葉に詰まるが、彼女になら言えると思った。言っても良い。
言わなきゃいけない。
雨のような彼女になら。
「誰かと関わって、自分の名前を呼ばれて、その後に裏切られるのが怖くて……逃げてるだけなんだよ。僕は、君よりもずっと、弱くて臆病な人間なんだ」
彼女の肩の震えが、ぴたりと止まった。
「君があっちの世界で、何をされて何をしてるのか僕は知らない」
何も知らないし、知らなくて良い。
僕は、自分の手のひらを見つめた。雨に濡れて、感覚が乏しくなっている。
「でも、これだけはわかる。君が今、こうして雨を降らせているのは、君の心があっちの世界でずぶ濡れだからだ。……名前すら呼べない僕が、君の痛みに気づかなかった。ごめん」
「……君が泣く理由を、僕に話してくれないかな」
彼女はゆっくりと、顔を覆っていた手を下ろした。
視界を塞ぐものがなくなると、彼女はひどく頼りなげに僕を見て、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……私、あっちの世界でも、ずっと独りなの。誰の名前を呼ぼうとしても、喉の奥が石みたいに固まって、音が出なくなるの。……一生懸命、伝えようとしたの。でも、みんな『怒ってるの?』とか『感じ悪い』って、どこかへ行っちゃう。……大好きだった人にさえ、……あんまり印象にないって言われちゃった。名前さえ、覚えてくれなかった」
彼女の告白は、雨音よりも鋭く僕の胸を抉った。
名前を呼ばないことで人を遠ざけてきた僕とは、真逆だ。彼女は名前を呼びたくて、誰かと繋がりたいと願って、そのたびに拒絶され続けてきたのだ。
「名前が呼べない。……ただそれだけなのに、世界が私を、透明人間みたいに扱うの。……ここにいれば、柏木くんは私を見てくれるから。名前なんて聞こえなくても、私を待っててくれるから。……だから、私、……」
彼女の目から、また大粒の雫が溢れた。
「……鈴木さん」
僕は彼女の乾いた両手を、雨に濡れた僕の手で包み込んだ。
「名前なんて、呼べなくたっていい。……君が誰かの名前を呼ぼうとして苦しんだ時間は、誰よりも人を愛そうとした証拠だろ。……僕は、そんな君をかっこいいと思う。逃げ続けてきた僕より、ずっと、ずっと綺麗だよ」
外側の雨が、ふっと弱まった。
空を覆っていた色が、わずかに解けていく。
「もう、泣く必要なんてないよ。君が、あっちの世界で笑えるようになるなら。……僕は、雨の降らない、日常になってもいい」
それは、僕にとって死刑宣告に等しい言葉だった。
彼女が泣き止む。それは、僕たちの別れを意味する。
彼女は僕の手を握り返した。彼女の肌に、僕の冷たい雨の感覚が伝わり、僕の手には、彼女の冷たい体温が灯る。
「…………私、頑張ってみたい、もう一度くらい。名前、呼べるように」
僕を見つめる目は今までのどの彼女よりも安定している。
「……私の名前、……もう一回聞いてくれない?」
「うん……僕のも覚えて欲しい」
彼女は、初めて出会ったあの日よりも、ずっと深く、晴れやかな笑顔を見せた。
その瞬間、世界が震えた。
叩きつけるような雨音が消え、雲の隙間から、冷たい星の光が差し込んでくる。
繋いでいた手の感覚が、粒子となって指の間を抜けていく。
「ありがとう」
彼女の唇が動いた。消えゆく輪郭の中で、彼女は必死に喉を震わせ、僕の名前を呼ぼうとしている。
「柏木、……くん。私の……名前は」
僕もまた、名前を言うため口を開いた。
ノイズに邪魔されないように。この世界の境界が閉じる、その一瞬の隙間に、魂を乗せて。
「雫」
お互いの声が、重なった。
瞬間、目の前を強烈な「花の香り」が通り抜けた。
気がつくと、僕は一人でベンチの前に立っていた。
雨は完璧に止んでいた。
彼女が座っていた場所には、足跡のように水溜まりだけがある。
最後に彼女が言った……あの響きだけが、耳の奥に微かな残響となって揺れている。
『--よ』
それが、彼女の本当の名前だったのか。
あるいは、ずっと言いたかった別の言葉だったのか。
確かめる術は、もう、どこにもない。
僕は、空を見上げた。
あんなに大好きだった雨が去った後の夜空を、僕は初めて美しいと思った。
濡れた服が肌に張り付いている。
いつもなら重たく感じるはずの足取りは、あの日よりも、ずっと軽かった。
雨の間 ひつまぶし @hanmanadesiko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます