三の間

彼女に会ってからずっとおかしかった。雨に当たっても全く濡れない。足元は裸足。その上、いつの間にかこの場所に来て、いつの間にか元居た場所に戻る。そして、聞こえない名前。しかもそれは僕にも影響を及ぼしている。今までになかった現象だ。


雨音に耳を澄ますように目をつむる。


本当は彼女についてなんとなく予想は付いていたのかもしれない。頭のどこかでは、いや、最初から思い付いていた。夢とか幻とかそういったものじゃなくて、もっと現実的で、非現実的なもの。


「ねぇ、僕、一つ考えてたことかあるんだ」


髪を揺らした彼女は何かの答えを求めるみたいに僕を見つめる。


「僕と君……鈴木さん。生きてる世界が違うんじゃないかな」


雨音が止まったように感じた。


「世界?」


無言で頷く。


「何かのきっかけで僕か鈴木さんが世界を移動して、雨が止むことでその二つの繋がりが消えて元に戻るって感じ。僕たち二人がきっかけとは思えないけど……この公園が何か繋がってるんじゃないかな、鈴木さんの居た公園には屋根がなかったって言ってなかった?」


初めて会った時に言っていた言葉をふと思いだし思わず口にした。そんな細かいことを覚えてる自分に少し驚いた。

知り合いの名前すら忘れる僕にとってそれは考えられないことだ。


「……言ってたよ、良く覚えてるね」


遠くを見つめる彼女はそう答えた。特に表情を崩すことはなかった。


「名前が聞こえないのも世界が違うからある程度、干渉できる制限みたいなものがあるのかも」


少し口が早くなった。それを聞いてのことなのか、彼女は僕の手を人差し指で叩いた。


「……教室の隅に居る人みたい」


口許を緩める彼女。

僕の早口についてのことだとすぐに分かった。言われたことはなかったけど、自分のことは一番良く分かっているので静かに頷く。


「否定はしない」


「……正しいと思うよ……概ね」


彼女はふとそう口にした。僕はどこか不思議だった。最後の言葉にどこか確信めいた物があるように感じたからだ。


「概ね……?」


僕が呟くと彼女は大袈裟に首を振った。

雨に濡れた犬みたいだと思った。


「ううん、何でもない」


「……そう」


と言った。


外はいつの間にか晴れが近づいている。

遠くでは町を照らす柱が現れていた。

彼女とは今日はお別れなのだと今の僕には分かる。


「今日は終わりだね」


彼女の声はどこか不安定に思えた。

崩れそうな橋みたいに。


「どうかし……」


言いかけた口を思わず閉じる。

彼女は居なかった。


座っていたと思われる場所を少し触れる。

やはり温もりはない。

雨の降る前みたいに冷たいなと思った。


家への帰路はあの日よりは心なしか軽く感じる。

雨が降るのが彼女と会える条件。

その事が分かれば会うことなんて特段難しいことじゃない。

雨を待てば良いのだから。大好きな雨を待つ。それで……彼女に会えるんだから。


最後の彼女。この前は別れ際が今日より突然だったから分からなかったけど、あの時の彼女の声がどうも彼女じゃないみたいに感じる。基本的に明るい彼女があの時は……


空を見上げると、やはり周りは雨を引きずるように雲が覆っている。


彼女は本当に明るい人なのだろうか。

そんな疑問がふと浮かんで、すぐに閉まった。


あの日から当分雨は降らなかったけど、特に不安は感じなかったし、退屈な日常も苦痛というほどではなかった。

いつかは会えるんだから。そういう余裕があった。


反対に彼女について考えることは増えた。

彼女はあちらの世界でどんな人と一緒にいるだろう。

どんな学校に通っているんだろう。

好きな食べ物は、好きなことは、頭は良いんですか。

気になることが山のように積もっていく。

こんなことは初めてで、初めてのことは少し怖いと思っていた。でも、こういうのはそこまで怖いものじゃなかった。

むしろ……

この先を考えようとしたけど、良く分からなかった。

一体何が出ようとしてたのか。




天気予報士が申し訳なさそうに読み上げる「記録的な空梅雨」という言葉を、僕は自室のベッドでぼんやりと聞いていた。一ヶ月。これほど長く、空が泣き止んでいたことはなかったはずだ。


​余裕があると思っていた。いつか降る。そう自分に言い聞かせていた。けれど、心のどこかで、あの花の香りが薄れていくことに恐怖を感じる。


知り合いの名前すら忘れる僕の脳が、彼女のハスキーな声や、細い指の感触までなかったことにしてしまうのではないか。


​そんな不安が臨界点に達した、日曜日の午後。

窓の外が、一瞬で墨を流したように暗転した。


雷鳴さえ聞こえない。ただ、叩きつけるような暴力的な水音が、屋根を、壁を、僕の鼓膜を蹂躙し始めた。

あの日までの心地よいリズムなんてものはどこにもない。それはまるで、誰かが世界の果てで絶叫しているような、凄まじい雨だった。


​「……鈴木さん」


​僕は傘も持たずに家を飛び出した。

肺に水が入り込みそうなほどの雨脚の中、公園へと走る。裸足にコンクリートの凸凹が刺さる。視界は白く濁り、数メートル先さえおぼつかない。

けれど、確信があった。この異常な雨が、彼女を連れてきている。

​公園の入り口を抜け、ベンチが見えた瞬間、僕は足を止めた。

 

そこに、彼女はいた。

座っているのではない。ベンチの前の水溜まりの中に、彼女は膝をついていた。

いつも明るく僕をからかっていた、あの面影はない。



​彼女は、泣いていた。


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