第3話 禁忌の契約
第3話:禁忌の契約
契約とは、握手で交わされるものではない。 少なくとも、神殺しの怪物との契約においては、それは「侵犯」と同義だった。
「――受け取れ。これが母神ティアマトの遺産だ」
キングゥの細い指先が、私の胸の中央、心臓のある位置へと沈み込んでいく。 物理的な抵抗はなかった。
皮膚も、筋肉も、肋骨さえも透過し、彼の冷たい手が私の「魂の核」を直接鷲掴みにした。
「ぐ、ぁ……ッ!?」
悲鳴を上げようとして、声にならなかった。
熱い。
氷のように冷たかったはずの彼の手から、ドロドロに溶けた鉛のような「何か」が、私の血管へと逆流してくる。
それは魔力ではない。もっと原初的で、おぞましい「呪い」の奔流だ。
ドクン、ドクン、と心臓が異常な早鐘を打つ。 視界の端で、灰色の地面に私の影が伸びていくのが見えた。
だが、その影は私の形をしていない。
不定形に揺らめき、膨張し、やがて11本の巨大な「鎖」となって、私の魂をがんじがらめに縛り上げた。
「これがお前の新しい骨格だ。『
キングゥが楽しげに囁く。 その言葉と同時に、胸の奥で焼き鏝(ごて)を押し当てられたような激痛が走った。
ジュゥウウウ……ッ!
魂が焦げる音が、鼓膜の奥で響く。
胸の皮膚に、漆黒の紋章が浮かび上がっていくのが見なくても分かった。
複雑怪奇な幾何学模様。
神話の怪物を象った、冒涜的な刻印。
「が、はっ……あ、ぐぅ……ッ!」
私は地面に膝をつき、灰色の砂を掻きむしった。
痛覚遮断の魔法など意味をなさない。これは肉体ではなく、存在そのものを書き換える痛みだ。
11本の鎖が、私の自我という杭に打ち込まれ、ギチギチと音を立てて食い込んでいく。
(……耐えろ。計算しろ。痛みの波及速度、秒速30メートル。意識レベル維持、限界まであと12秒……)
白濁しそうになる意識の中で、私の思考の一部だけが、皮肉なほど冷静に状況をモニタリングしていた。
聖騎士として培った精神修養が、この極限状態で「自我の崩壊」を食い止めている。 皮肉なものだ。帝国のために鍛えた鋼の精神が、帝国を滅ぼすための怪物になる儀式を支えているとは。
「ほう? 気絶しないか。……いい素材だ。なら、まずは『一つ目』を起こそうか」
キングゥが指を鳴らす。
パチン。
その軽い音が、トリガーとなった。
11本の鎖のうち、最も深く心臓に絡みついていた1本が、脈動を始める。
――ズズズ、ズズ……。
血管の内側を、何かが這い回る感覚。
蛇だ。
無数の小さな蛇が、私の血液の中で生まれ、全身を巡り始めたのだ。
「第1の枷、毒の竜『ムシュマッヘ』。その権能は『血液の支配』と『超再生』」
キングゥの声が、遠くから響くように聞こえる。
「喜べ、アルス。これでお前はもう死ねない。首を落とされようが、心臓を潰されようが、その血が在る限り何度でも蘇る。……ただし」
彼は私の耳元に顔を寄せ、死刑宣告のように甘く囁いた。
「鎖を一つ解くごとに、お前の人間性は怪物へと喰われる。得られる力の代償として、お前は『人間として当たり前の感覚』を一つずつ失っていくんだ」
「……上等、だ」
私は血の味のする唾を吐き捨て、よろめきながらも顔を上げた。
全身から噴き出す冷や汗が、灰色の砂を濡らす。
血管の中を蠢く蛇たちの不快感は消えない。
だが、それ以上に身体の奥底から湧き上がってくる、爆発的な力の奔流を感じていた。
「代償がなんだ。痛みなど、ただの電気信号だ。……復讐に必要な機能さえ残っていれば、他は何もいらない」
私の言葉に、キングゥは満足げに目を細めた。
「ハハッ、とんだマキャベリストだ。……時間だ、アルス。現世(うえ)でお客様が待っているぞ」
キングゥが頭上を指差す。
灰色の空に、亀裂が走った。
そこから漏れ出してきたのは、懐かしくも忌々しい、現世の重力だった。
身体が浮き上がる。
冥界の底から、強力な磁力に引かれるように、私の魂が吸い上げられていく。
「忘れるなよ、アルス・アストラ。『
少年の嘲笑うような声を背に、私の視界は急速に色彩を取り戻し――そして、完全な闇へと反転した。
***
……寒い。
次に感じたのは、石造りの床の冷たさだった。
カビ臭い空気。
鼻をつく線香の匂い。
そして、何かが腐敗したような甘ったるい死臭。
目を開ける。
視界は狭く、暗い。
私は狭い空間に閉じ込められていた。
身体を動かそうとすると、ガサリと硬い布が擦れる音がした。
(……死体袋か)
瞬時に理解した。
ここは処刑場の地下にある霊廟。
罪人の遺体が無造作に放り込まれる、帝都のゴミ捨て場だ。
自分の身体を確認する。
首には、切断されたはずの断面が繋がり、赤黒い線となって残っている。
心臓は動いている。
だが、その拍動は以前のものとは違う。
ドクン、ドクンという人間的なリズムの裏で、シュル、シュル、という蛇が這うような微かなノイズが混じっていた。
――生き返ったのだ。 怪物として。
私は死体袋の内側から手を伸ばし、ジッパーを探った。
「おい、こっちだ。まだ金目のものが残ってるかもしれねぇぞ」
不意に、外から男の下卑た声が聞こえた。
足音が近づいてくる。
一人ではない。三人、いや四人か。
金属鎧が擦れる音。聞き覚えのある、帝国騎士団の支給品の音だ。
「元聖騎士団長様の遺体だろ? 装備だけでも、裏ルートで売れば一生遊んで暮らせるぜ」
「へへっ、違いねぇ。……死んだらただの肉だもんなぁ」
かつての部下たちの声だ。
彼らは私が守り、育て、そして私を裏切った連中。
袋の中で、私の唇が自然と歪んだ。
笑っているのか、それとも怒っているのか、自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥にある「鎖」が、獲物の気配に反応して嬉しそうに震えているのだけは分かった。
(……ああ、そうだ。キングゥの言う通りだ)
お客様のお出ましだ。
復讐劇の幕開けに相応しい、最初の生贄たちが。
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