第2話 灰色の冥界イルカルラ

第2話:灰色の冥界イルカルラ


目が覚めたとき、最初に感じたのは「渇き」だった。



喉が渇いているのではない。世界そのものが乾いているのだ。  


空気中に水分という概念が存在せず、呼吸をするたびに肺の内側が紙やすりで擦られるような、ザラついた不快感が全身を駆け巡る。


 私は重い瞼を開けた。



「……ここは」



声が、すぐそばの地面に吸い込まれて消えた。  

視界に広がっていたのは、見渡す限りの「灰色」だった。


空は鉛色に塗りつぶされ、太陽も星もない。

地面は灰のような細かい砂で覆われており、踏み出すたびに音もなく崩れる。  

色彩がない。赤も、青も、緑もない。  

まるで、世界の絵の具が尽きた後のキャンバスに放り出されたようだった。


私は体を起こし、周囲を見渡した。  遠くに、ぼんやりとした人影の群れが見える。


彼らは一様に、薄汚れた灰色の布……いや、違う。  

あれは「鳥の羽」だ。  

鳩やカラスの羽を無造作に縫い合わせたような、奇妙な衣を身に纏っている。


 彼らは地面に這いつくばり、一心不乱に何かを口に運んでいた。  私はよろめく足取りで近づいた。



「おい。ここはどこだ。……水はないか?」



私の問いかけに、一人の老人が顔を上げる。  

その瞳は白く濁り、焦点が合っていない。  彼の口元は泥と灰で汚れていた。その手には、地面の砂が握られている。


 シャリ、シャリ、と音を立てて、老人は砂を咀嚼した。



「……あぁ、美味い。今日も土が美味い」



老人は恍惚とした表情で、砂埃を飲み込んだ。  

隣にいた女も、子供も、鳥の羽を震わせながら、競うように地面の塵を貪っている。


寒気がした。  


ここは地獄か? 

いや、帝国で教えられた地獄には、もっと情熱的な業火があるはずだ。  


ここは、そんなエネルギーさえ存在しない、ただ「終わっている」だけの場所だ。



「ヒャハハハ! 驚いた? 人間ってのは、プライドを捨てれば泥だってご馳走になるんだよ」



不意に、背後から小馬鹿にしたような笑い声が響いた。  

私は反射的に腰の剣へ手を伸ばそうとしたが、あるはずの剣帯は消えている。


振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。  

年齢は10代半ばほどか。性別を感じさせない中性的な容姿。  


奇妙なのは、彼だけがこの灰色の世界で、鮮烈な「漆黒」の髪と瞳を持っていたことだ。


 少年は瓦礫の上に足を組み、私の反応を楽しげに見下ろしている。



「ようこそ、聖騎士団長アルス・アストラ。いや、今はただの『死体番号4096番』だったかな?」


「……貴様は誰だ。ここはどこだ」


「ここは『イルカルラ』。お前たち人間が冥界と呼ぶ場所の、さらに底。神様が見向きもしないゴミ捨て場さ」



少年は軽やかに瓦礫から飛び降り、私の目の前まで歩み寄る。  

その足音には重さがなく、まるで影そのものが移動しているようだった。



「僕はキングゥ。この退屈なゴミ捨て場の管理人であり、案内人だ。……おめでとう、アルス。お前は『当たり』を引いた」


「当たり、だと?」


「そうさ。本来なら、お前のような魂はすぐに浄化されて、次の生命の資材リソースとしてリサイクルされる。だが、お前はここに落ちてきた。……神に捨てられた『残飯』としてね」



 キングゥと名乗った少年は、私の胸元を細い指先でツンと突いた。  その指先から、氷のような冷気が心臓へと流れ込んでくる。



「太陽神マルドゥクは、お前を見捨てた。お前の親友ヴァレリウスが『正しい計算』のために生贄を捧げたとき、天界の帳簿はお前の死を『処理済み』として受理したんだよ。だからお前の魂は、誰にも拾われず、重力に従ってここまで落ちてきた」



ヴァレリウス。  

その名を聞いた瞬間、私の脳裏にあの処刑台の光景がフラッシュバックした。  



『これは正しい数学的処置だ』



あいつの完璧な論理。功利主義の数式。  

私の命は、帝国の治安維持コスト削減という数字に変換され、消費されたのだ。



「……そうか。私は、死んだのか」



実感が湧いてきた。  

怒りよりも先に、深い徒労感が押し寄せる。  

国のために剣を振るい、民を守り、最後は友に裏切られて、泥水を啜って死んだ。  それが私の人生の結末か。あまりにも救いがない。



「悔しいか?」



キングゥが顔を覗き込んでくる。  

その瞳は、深淵のように暗く、それでいて子供のような無邪気な残酷さを湛えていた。



「このままここで、彼らのように鳥の羽を纏って、永遠に塵を食んで暮らすのも悪くないぞ? 何も考えなくていい。痛みもない。ただ、自分という存在が摩耗して消えるのを待つだけの、穏やかな永遠だ」



少年は、砂を貪る亡者たちを指差した。  

彼らには自我がない。過去もない。ただの「消化器官」としての機能だけが残っている。

 あれが、私の成れの果てか?  帝国の英雄と呼ばれた私が?



 ――ふざけるな。



 私の奥底で、冷え切っていた感情の炭火が、パチリと音を立てて爆ぜた。



「……断る」



 私は短く吐き捨てた。  キングゥの目が、三日月のように細められる。



「ほう? 神が決めた運命シナリオだぞ? お前はもう『終了』したんだ。大人しくエンドロールを眺めていればいい」


「誰が決めた? 神か? ヴァレリウスか? ……知ったことか」



 私は灰色の地面を強く踏みしめた。  足元の砂が崩れる感触。その不安定な足場の上で、私は自分の重心を確かめるように背筋を伸ばした。



「俺の人生の意味オチは、神が決めるものじゃない。俺自身がこれから刻むものだ。……たとえ、ここが地獄の底だとしてもな」



 そうだ。  


私はまだ、あの「泥水」の味を覚えている。  

最期に感じた、あの鉄と泥の不味さを。あれが俺の人生の最後の味であってたまるか。  

俺を数式の一部として処理したヴァレリウスに、計算外の「答え」を突きつけてやるまでは、消えるわけにはいかない。


 私の言葉を聞いたキングゥは、しばらく呆気にとられたように口を開けていたが、やがて肩を震わせ、腹を抱えて笑い出した。



「アハハハハハッ! 最高だ! やっぱり人間ってのは、壊れる寸前が一番面白い!」



 ひとしきり笑った後、彼は表情を一変させた。  嗤いは消え、そこには数千年の時を経た老成と、神話的な威圧感が浮かんでいた。



「いいだろう、アルス・アストラ。その『実存』への執着、気に入った。……お前の魂の奥底に、ある『怨念』がこびりついているのが見えるか?」


「怨念……?」


「かつてマルドゥクたち新しい神々に殺され、この大地そのものとなった原初の母神、ティアマトの叫びだ。お前の復讐心は、母神の遺志と共鳴している」


 キングゥは右手を掲げた。  その手のひらに、漆黒の闇が凝縮されていく。



「選択肢をやろう。このまま塵となって消えるか。それとも――人間であることを辞め、神を食い殺す『怪物』となって蘇るか」



 究極の二択。  


だが、私に迷いはなかった。



人間としての尊厳? 



聖騎士としての誇り?  



そんなものは、あの処刑台の露と一緒に飲み込んだ。  



今の私にあるのは、ただ一つの明確な目的だけだ。



「力を寄こせ、キングゥ。……怪物で構わない。俺から全てを奪った連中から、今度は俺が全てを奪い返してやる」



 私の答えに、キングゥは満足げに唇を歪めた。  それは、世界への呪詛と、極上のエンターテインメントを待ち望む観客の顔だった。



「契約成立だ。……さあ、始めようか。お前の魂に、11本の鎖を打ち込む『手術』を」



 彼の手が、私の胸へと伸びる。  灰色の世界が、その闇に侵食され、黒く塗り替わっていく。



 次なる激痛の予感を前に、私は無意識に口元を拭った。  







――待っていろ、ヴァレリウス。  




お前の完璧な世界を、俺という「バグ」が食い尽くしてやる。


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