第12話 『お降りのあとに、九人の継ぎ目』

「ったく、まだ朝飯か。いくら『三が日』だからって、こんなに食えるか」


源次郎は、吐き出すような声で言った。一月二日。昨日と同じく、まだ薄暗い「初明り」が縁側を照らしている。台所からは、味噌汁の香りと、何かを焼く匂いが混じり合って漂ってきた。 朝食の準備をする恵美と真央の、食器を扱う小気味よい音が響いている。 「おじいちゃん、おはよう」 太一が、摺り足で源次郎の横に座った。まだ眠気が残っているのか、その声はひどく掠れている。 「おはよう、太一。……今日は、昨日より少し冷えるな」 源次郎は障子越しに、庭の「門松」を眺めた。竹の青々とした色が、冷たい空気の中で一層鮮やかに見える。


「お父さん、起きてるなら手伝ってよ。早くしないと大介さん、また集中できないって文句言うわよ」 恵美の声が響く。源次郎はむっとしたが、何も言い返さなかった。 「若水」を汲むように、洗面台の蛇口を捻る。指先に伝わる冷たさが、昨日の「旧年」の澱を洗い流すかのように、全身の眠気を吹き飛ばしていく。 顔を上げると、鏡の中の自分と目が合った。七十五歳の皺が刻まれた顔。いつの間にか、自分もこんな年寄りになってしまったと、改めて突きつけられるような気がした。


居間へ戻ると、食卓には既に全員が揃っていた。 「おはようございます、親父さん。今朝も早いですね」 慎一が、淹れたての熱いお茶を差し出した。 「ああ。……で、大介は?」 「集中できるって言って、もう書斎に籠もってますよ。在宅勤務って大変ですね」 慎一は苦笑いするが、その目には少しばかりの羨ましさが宿っているようにも見えた。


「さあ、みんな揃ったわね。お母さん、今日の『数の子』、いいわよ」 恵美が、小鉢を芳江の前に置いた。 芳江は、おっとりとした手つきで「太箸」を執る。そして、小さく一つ頷いた。 「……ええ。いい音」 カツン、という小気味よい音が、静かな空間に響き渡る。 源次郎も「数の子」を口に運んだ。プチプチと弾ける食感が、舌の上で踊る。塩気と出汁の風味が混じり合い、正月ならではの贅沢な味わいだ。 「昨日のも良かったが、今日の『二日』のは、また格別だな」 源次郎は、そう呟いた。


「おじいちゃん、お餅食べる?」 次郎が、きな粉餅を差し出した。白い「餅」に、きな粉の黄色が鮮やかだ。 「おう、食う」 源次郎は、次郎の差し出した餅を一口で頬張った。米の甘みが口いっぱいに広がり、身体の芯から温かくなる。 「おいしい?」 「ああ、美味い。次郎も食え」 源次郎は、自分の分を次郎に分け与えた。 その時、窓の外が急に暗くなった。そして、「しとしと」と優しい音が聞こえてくる。 「……おや、『お降り』だな」 芳江が静かに言った。 雨だ。しかし、激しい雨ではなく、まるで空から綿毛が降ってくるかのような、細やかな雨。 「『お降り』って、縁起がいいんだよね」 真央が、花を抱きながら言った。花は、きょとんとした目で窓の外を見つめている。 「そうだ。豊作を約束する雨よ。去年の不作を洗い流してくれる」 芳江の言葉には、確かな重みがあった。


「お父さん、もう一杯いかが?」 慎一が「年酒」を注ぐ。透明な液体が、お猪口の中で光を反射している。 「……ああ、もらう」 口に含むと、米の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。 昨日より、さらに深く、身体に染み渡るような気がした。 「この酒は……じいちゃんが昔、大事に隠してたやつだよね?」 大介が、奥の棚に目をやった。 「ふん。よく覚えてるな。お前が小学校に上がる時に、めでたいからって開けたんだ。まだ残ってたとはな」 「へえ、そうなんだ」 大介は、自分の「年酒」をゆっくりと味わうように飲んだ。 その横で、真央が「お母さん、もうちょっと寝ていいですか?」と、疲れた顔で芳江に尋ねている。 「いいのよ、真央ちゃん。夜勤明けだもの。花ちゃんは私がみるから」 「ありがとうございます……」 真央はホッとしたように、そっと目を閉じた。


「おじいちゃん、おんも、もう止んだよ」 太一が、窓の外を指差した。 「初晴」だ。厚い雲の切れ間から、太陽の光が差し込んでいる。 庭の門松が、雨粒を纏ってキラキラと輝いていた。 遠くには、雪を戴いた「初山河」が、神々しい姿を見せている。 その光景を目にして、源次郎は、昨日とはまた違う感情を覚えた。 昨日の元旦は、ただ騒がしく、浮ついた高揚感に満ちていた。しかし今日の「二日」は、雨が大地を清め、澄んだ空気が「年の始」の清冽さを際立たせている。 「……まったく、この年になって、まだこんなに美しいものが見られるとはな」 源次郎の口から、自然とそんな言葉が漏れた。


「ねえ、おじいちゃん。お昼から『福引』に行かない?」 恵美が、パンフレットを広げた。 「福引? そんなもの、時間の無駄だ」 源次郎は吐き捨てるように言う。 「いいじゃない。どうせ暇なんだし、子供たちも喜ぶわよ」 慎一が、珍しく恵美に賛同した。 「そうだよ、じいちゃん。僕、自転車が欲しい!」 次郎が目を輝かせている。 「自転車なんて、危ないからダメだ」 源次郎は一蹴したが、花が「ふくびき!」と、小さな声で源次郎の膝を叩いた。 「……ったく、お前たちは」 源次郎は、頭を掻いた。頑固な職人の心が、少しずつ解かされていく。


「お父さん、無理しなくていいのよ。疲れてるでしょう」 芳江が、漬物とお茶を源次郎の前に置いた。 「疲れてなどいない。……ただ、少し、考えることがあるだけだ」 源次郎は、目の前の「餅」をゆっくりと噛み締めた。 この家を建てた三十年前。まさか、九人もの家族がこの食卓を囲むとは、想像だにしていなかった。 軋む床、足りない椅子、混じり合う音と匂い。 それらすべてが、今、かけがえのないものとして、源次郎の心に温かい光を灯している。 「俺の代で終わりでいい」そう思っていたはずの言葉が、遠い昔の出来事のように感じられた。


「おじいちゃん、早く行こうよ! 福引!」 次郎が、源次郎の腕を引っ張る。 「わかった、わかった! 少し休ませろ」


「宝舟」に乗って現れるのは、七福神だけではない。 「一月」の清らかな空気の中、九人の、そして十人目の「家」の笑い声が、新しい一年を乗せて、穏やかに流れ始める。 「お降り」の後の「初晴」のように、希望に満ちた光が、この食卓を包み込んでいた。


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『九人(くにん)の食卓 〜お箸が足りません!〜』 春秋花壇 @mai5000jp

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