第11話 『きしむ床、初明りの家』

「……ったく、朝っぱらから騒々しいな」


源次郎は、築三十年の木造家屋が軋む音で目を覚ました。 枕元の時計はまだ六時を回ったばかりだ。一月一日、元日の朝。カーテンの隙間から差し込む光は、鋭く、それでいてどこか柔らかな「初明り」となって、大工として長年使い込んできた源次郎の節くれだった指を照らしている。


「お父さん、起きたの? 早く着替えて。みんなもう起きてるわよ」 芳江が障子を開ける。冷たい空気が流れ込み、源次郎は小さく身震いした。 「……わかってる。『元朝』から急かすな」 「急かしてないわよ。今日は九人なんだから、段取りが命なの」 芳江の言葉は静かだが、その背中からは「家の重心」としての覚悟が漂っている。


居間へ向かう廊下を歩けば、古い床板が「キュッ」と鳴る。この家そのものが、九人の重みを受けて深呼吸をしているようだ。 台所からは、恵美が立ち働くとんとんという包丁の音と、出汁の香りが漂ってくる。 「おじいちゃん、おめでとう!」 次郎が弾丸のように走ってきて、源次郎の膝に体当たりした。 「おう、次郎か。……『御慶』。走り回るな、埃が舞うだろうが」 「ごけー? おめでとうでしょ!」 四歳の衝動は、静かな「年の始」を容赦なくかき乱す。


「おはようございます、親父さん」 慎一が、窮屈そうにネクタイを緩めながら座卓に着いた。 「慎一、元日からそんな顔するな。せっかくの『明の春』だ」 「わかってますよ。でも、これだけの人数が集まると、何から話せばいいか……」 慎一は苦笑いしながら、手持ち無沙汰に自分の湯呑みを回している。


「お父さん、とりあえずこれ。子供たちの分」 真央が、ぐずる花を抱きながら「年玉」の袋を差し出した。 「いいんだよ、後でまとめて渡すから」 源次郎はぶっきらぼうに答えるが、その視線は花に向けられている。二歳の末っ子は、源次郎の指を小さな手で握りしめた。その温もりに、源次郎の頑固な芯がわずかに解ける。


「さあ、並べて! 冷めないうちに」 恵美の号令で、九人が一つの食卓を囲む。 かつて源次郎がこの家を建てた時、これほどの大所帯が一度に座ることは想定していなかった。椅子が足りず、大介はキャンプ用の折り畳み椅子を持ち出し、太一は座布団を二枚重ねにして背を伸ばしている。


「大介、お前それじゃ腰を痛めるぞ」 源次郎が言うと、大介は困ったように笑った。 「いいんだよ、じいちゃん。俺は『在宅』で慣れてるから。これくらいが丁度いい」 「ふん、ITだか何だか知らんが、地に足の着かない仕事をしおって」 「まあまあ。今日は『歳旦』、おめでたい日なんだから」 芳江が年酒の瓶を回す。


「それじゃあ……」 源次郎が、ゆっくりと「太箸」を執った。 「『新年』、明けましておめでとう。この家もガタが来てるが、こうして九人揃った。……いただきます」 「「「いただきます!」」」


一斉に箸が動く。 「このお餅、よく伸びる!」 太一が目を輝かせる。 「太一、ゆっくり食べなさい。詰まらせたら大変よ」 真央の看護師としての鋭い目が光る。その横で、慎一が酒を一口煽り、「ふぅ」と長い溜息を吐いた。 「……生き返るな」 「慎一さん、まだ始まったばかりよ。今日は『参賀』のお客様も来るかもしれないんだから、飲みすぎないで」 恵美の言葉には、司令塔としての重圧が滲んでいた。


「じいちゃん、この床、あそこで鳴るよね」 太一が、廊下の一点を指差した。 「……ほう、よく気づいたな。あそこは梁の組み方が少し甘かったんだ。三十年前の俺の、唯一の計算違いよ」 「計算違いなのに、そのままにしてるの?」 「直せるさ。だがな、あの音が聞こえると、誰が帰ってきたかすぐわかる。直さないのも一つの『正解』なんだよ」 大介が、その言葉を反芻するように頷く。 「……残す価値、か」 「何か言ったか?」 「いや。この家、意外と『音』がいいなと思って。みんなの声が響いて、楽器みたいだ」 大介の言葉に、源次郎は鼻を鳴らした。だが、その顔はどこか誇らしげだ。


外では「鶏旦」を告げる鳥の声が響き、太陽が完全に昇りきった。 「春永」の予感を感じさせる、穏やかな陽光が縁側に溜まっている。 「おじいちゃん、おんも!」 花が、源次郎の裾を引っぱった。 「外か? 寒いぞ」 「おんも、きらきら!」 花の直感に導かれるように、源次郎は縁側へ出る。


そこには、源次郎が守ってきた「家」の影が、冬の地面に長く伸びていた。 「……俺の代で終わりだと思っていたがな」 後ろを振り返れば、騒がしく笑い、食べ、時に言い争う家族の姿がある。 慎一の疲れ、恵美の献身、真央の孤独、大介の模索。 それらすべてを包み込んで、この木造の箱はきしんでいる。


「お父さん、何してんの。風邪引くわよ」 芳江が、源次郎の肩に古いドテラを掛けた。 「……芳江。この家、少し狭すぎるな」 「そうね。でも、隙間がないくらいが、温かくていいじゃない」 芳江は静かに笑い、家族の輪の中へ戻っていった。


源次郎は、もう一度、花の小さな手を握った。 「よし、花。来年も、再来年も、このきしむ床を一緒に歩いてやろう。……それが、この家を建てた俺の、最後の仕事かもしれんな」


元日の陽光が、九人の笑い声とともに、築三十年の木材の奥深くまで染み込んでいく。 「大旦」の静寂は、いつしか新しい一年の、騒がしくも愛おしい鼓動へと変わっていた。


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