第9話|九膳(きゅうぜん)の行方
第9話|九膳(きゅうぜん)の行方(改稿)
築三十年の木造住宅が、かすかに呻いた。
「……また、この季節か」
源次郎が和室の畳に膝をつき、床に耳を近づける。
縁側の隙間から差し込む光の中で、埃がゆらゆらと踊っていた。
初夏の湿り気を含んだ風が、家の奥に潜む“見えない不安”を運んでくる。
「お父さん、またその話?」
洗濯物の山を抱えた恵美が通り過ぎながら言う。
「去年も一昨年も、異常なしだったでしょ」
だが、源次郎の顔は笑っていなかった。
長いこと家を見てきた者の目――木が出す小さな悲鳴を、聞き逃さない目。
「異常なし、ってのはな」
源次郎は、手近にあった金槌で床板を、こん、と叩いた。
音が返る。軽すぎるわけでも、重すぎるわけでもない。
それでも源次郎は眉を寄せた。
「“今は”ってだけだ。
薬の効き目なんてのは、年数が来りゃ薄れる。
家は待ってくれねえ。湿気も、虫も」
「五年くらいだっけ」
在宅勤務の手を止めた大介がリビングから顔を出す。
机の上にはノートPC、メモ帳、子どもの落書き。
「前回の記録、ちょうどそのくらいだった気がする。
でも……結構かかるよね。費用」
「金の話じゃない」
源次郎の声が、低くなる。
「九人が住んでる重みが、床下にかかってる。
太一や花が走るたび、床が笑ってるだろ。
その下で、誰が何を食ってるか分からねえってのが怖いんだ」
言い終えた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
源次郎が手配していた点検業者が来たのだ。
家族が見守る中、作業員が床下収納から潜り込んでいく。
ライトの光が暗闇に吸い込まれ、乾いた音がリビングに落ちる。
ガサ、ガサ。
ごそ。
金具が触れ合う、かすかな音。
九人は、手術室の前で待つ親族のように、
ただその音を聞いていた。
「……どうだ」
源次郎が、這い出してきた作業員に食い気味に問う。
作業員はヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭った。
「大きな食害は、まだありません」
その言葉に、一瞬だけ空気が緩む。
だが、次が続いた。
「ただ……効き目は、かなり落ちています。
湿気の溜まりやすいところがあって、ここから先は危ない。
再施工、した方がいいですね」
源次郎は、頷いた。
悔しそうでも、驚きでもない。
“やっぱりな”という顔だった。
大介は、床下の暗闇を思う。
自分たちが笑って、怒って、食べているその数十センチ下で、
この家の命綱が、静かに擦り切れていく。
「……親父」
大介が、静かに言う。
「建て替えの話、前にしたよね。
この家、シロアリだけじゃなくて、地震も怖い。
父さんも……この家は俺の代で終わりでいいって」
源次郎は黙って、自分の掌を見つめた。
この家を叩き、柱を選び、釘を打ち、
家族の居場所を作ってきた手。
「……ああ。言った」
やがて、源次郎は顔を上げる。
「俺の代で終わりでいい。
そう思う日もある」
廊下を、花がパタパタと走り抜ける。
太一の笑い声が追いかける。
源次郎の目が、その小さな足音に柔らかくなる。
「でもな。
あの子が転んでも大怪我しねえのは、この床が踏ん張ってるからだ。
九人が眠れるのは、屋根がここに残ってるからだ」
源次郎は、ぐっと声を落とす。
「建て替えるにしても、時間がいる。
その間、この家を“死に体”にはできねえ」
そして、大介を見る。
言葉ではなく、職人の眼差しで。
「大介。
家を継ぐってのは、形を残すことじゃねえ」
一拍。
「ここに住むやつらの“安全”を、
一日一日、繋いでいくことだ」
源次郎は、強く言い切る。
「効き目が切れるなら、足す。
また五年分、この家の命を買い足す。
それが、俺の仕事だ」
慎一が、そっと大介の肩に手を置いた。
「大介。親父の言う通りだと思う」
慎一は、少し笑う。
「会社だってそうだ。
メンテをサボれば、内部から腐る。
家も同じ。……この五年は、俺とお前で出そう」
大介が、息を吐いた。
床下の暗闇が、少しだけ現実の輪郭を持つ。
「……分かった。出そう」
その夜。
防除の予約を終えた食卓には、
どこか清々しい空気が流れていた。
薬剤の匂い――というより、
守ると決めた人間の匂いが、家の隅にまで回っていく。
「じいじ」
太一が、不思議そうに床下を指差す。
「おうち、お薬のむの?」
「ああ」
源次郎が、今日初めて少し笑った。
「これで、この家はしばらく踏ん張れる。
お前が小学校を卒業する頃までな」
芳江が、お箸を並べる。
今日は、九膳。
どれも揃っていないのに、ちゃんと九膳。
「九膳、並ぶ床がある」
芳江が小さく言う。
「それだけで、十分、幸せね」
家はいつか壊れる。
形あるものはすべて、どこかで終わる。
けれど、終わりまでの間に、
“持たせる”という仕事がある。
大介は、椅子の感触を確かめた。
足元の木が、今日からまた九人の重みを背負う準備をしている。
その振動が、言葉より確かに伝わってくる。
「……いただきます!」
九つの声が、床の上で弾けた。
守られた場所で、また明日を迎えるために。
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