第8話|昭和式・非常対応
第8話|昭和式・非常対応(改稿)
朝から、家の空気が張りつめていた。
「……三十八度五分」
洗面所で、真央の声が震える。
「嘘でしょ……。今日から、リーダー業務なのに」
復職して二週間。
看護師として現場に戻ったばかりの彼女にとって、
子どもの急な発熱は、最も想像したくなかった事態だった。
二歳の花は、真っ赤な顔でぐずりながら、
真央のスカートに顔を押しつけている。
「まま……いたい……」
「大介くん」
真央は、縋るように振り向いた。
「今日、休める?」
「……ごめん」
大介は視線を落とす。
「午前中、どうしても外せないミーティングがあって。
午後からなら、なんとか……」
その言葉は、正しい。
だからこそ、残酷だった。
恵美も、パート先で人手不足。
慎一は、すでに満員電車の中だ。
「……誰が休むか」
真央の口から、冷たい言葉が零れた。
「誰が、責任を取るか」
家族というチームが、
最も機能不全に陥る瞬間。
誰かが社会的な役割を捨てなければ、
この小さな命は守れない。
そのとき、襖が音を立てて開いた。
「朝から、情けねえ顔しやがって」
源次郎だった。
その後ろに、湯呑みを盆に載せた芳江が続く。
「お義父さん……花が熱を出して……」
真央が言いかけると、
芳江が静かに首を振った。
「いいのよ、真央さん。
仕事に行きなさい」
「え……でも」
真央は言葉を詰まらせる。
「二人だけで花を見るのは大変です。
薬の飲ませ方も、水分補給も……」
「看護師だからって、
俺たちを素人扱いするな」
源次郎が、低く言った。
「慎一を育てたのは誰だ。
この家で、何人のガキを見てきたと思ってる」
腕を組む。
「昭和のやり方を、舐めるな」
「お父さん……」
大介が口を挟みかけるが、
源次郎は花をひょいと抱き上げた。
「大介。
お前は仕事に行け」
真央を見る。
「真央さんもだ」
一拍、置いて。
「……ここは、俺たちの持ち場だ」
夕方。
真央は、仕事を終えると走った。
(大丈夫だろうか)
(泣いていないだろうか)
(怒鳴られていないだろうか)
不安が、足を重くする。
玄関を開ける。
――静かだ。
不安が、別の形に変わる。
リビングに入って、
真央は立ち尽くした。
布団が敷かれ、
その横で、源次郎が花の背中を
一定のリズムで叩いている。
「……ねんねん、ころりよ……」
低く、不器用な子守唄。
花の額には、冷たい手ぬぐい。
呼吸は、穏やかだった。
「あら、真央さん。お帰り」
キッチンで、芳江が振り向く。
「花は……?」
「さっき、お義父さん特製の
“たまご酒もどき”を飲んでね。
少し熱も下がったみたい」
真央は、そっと花の頬に触れた。
朝の熱は、確かに引いている。
「……すみません。
ずっと、見ていてくださったんですね」
源次郎は、急に顔をしかめた。
「フン。
二歳の子一人、どうってことねえ」
ぶっきらぼうに続ける。
「冷えピタだの、ゼリーだの、
最近のやり方は頼りねえ。
昔はな、人の手で治した」
その手は、硬く、節くれ立っていた。
けれど、そこにあったのは、
確かな温もりだった。
芳江が、お粥を差し出す。
「昔のやり方は、雑かもしれない。
でも、こうやって命は繋がれてきたの」
真央を見る。
「助けてもらうことは、甘えじゃない。
九人もいれば、誰かが倒れる日もある」
微笑む。
「その時、手を出せる人が出せばいい。
それが、この家のやり方よ」
真央の目から、涙が落ちた。
「……一人で頑張らなきゃって。
復職したんだから、迷惑をかけちゃいけないって……」
「迷惑なんて、お互い様だ」
源次郎が、ぼそりと言う。
「箸が足りなきゃ、
俺のを使えって言ったのは誰だ」
少し照れたように、背を向ける。
「……飯だ。
今日は俺が並べた」
食卓には、九膳の箸。
少し歪んでいるが、まっすぐだった。
昭和の頑固さ。
令和の責任感。
その間を繋ぐのは、
効率でも理屈でもない。
「情」だった。
「……いただきます」
真央が口にしたお粥は、
出汁と大根の味と、
誰かに守られているという感覚がした。
それは、久しぶりに思い出した、
家の味だった。
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