第7話|二十九年目の真実
第7話|二十九年目の真実(改稿)
銀婚式の夜。
食卓には、少しだけ贅沢な赤身の刺身と、
慎一が奮発した赤ワインが並んでいた。
特別な日だというのに、
家の空気は不思議と落ち着いている。
恵美が戻ってきてから、この家は少し変わった。
慎一も大介も、自分の箸とコップを、
言われる前に自分で並べるようになった。
それだけのことなのに、
食卓は以前より静かだった。
「二十五年、か」
恵美がグラスを持ち上げる。
照れ隠しのような笑顔。
指先には、家事で刻まれた節があった。
「長いようで……早かったわね」
「本当だな」
慎一が頷く。
「まあ、お互いよく持ったよ」
冗談めかした声に、笑いが起きる。
ワインが進み、子どもたちが遊び疲れて、
リビングの隅でうとうとし始めた頃だった。
慎一の視線が、
向かいに座る大介に止まった。
「……大介」
声の調子が、少し変わる。
「お前が、今の真央さんと同じ二十九になったのを見てると、
どうしても思い出すんだ」
恵美が、何も言わずにグラスを置いた。
「俺たちが……どん底だった頃のことをな」
空気が、ほんの少し張りつめる。
源次郎は黙って焼酎を一口飲み、
芳江は膝の上で眠る花の髪を撫でていた。
「どん底って……」
大介が聞き返す。
「僕が生まれた頃の話?」
慎一は、ゆっくり頷いた。
「お前が生まれてすぐ、
俺の勤めてた会社が倒産した」
ワインの表面が、わずかに揺れる。
「再就職も決まらなくてな。
この家のローンも、
お前のミルク代も、危なかった」
言葉を選ぶように、一拍置く。
「……初めて知ったよ。
明日、食うものがないかもしれないって怖さを」
真央が、息を呑む。
大介の知っている父は、
地味でも、いつも働いている人だった。
そんな過去があったとは、想像もしていなかった。
「その時だ」
慎一が、隣で黙っている源次郎を指した。
「親父に、こう言われた」
源次郎は、視線を合わせない。
「『子ども一人、食わせられないなら、
親戚のあの家に養子に出せ』」
大介の胸が、どくりと鳴る。
「『あそこなら、大学までやれる。
それが、この子の幸せだ』ってな」
「……え」
養子。
その言葉が、今の自分を根こそぎ揺らした。
「恨むなよ」
恵美が、大介の手に触れる。
「おじいちゃんも、
この家と、あなたを守ろうとしたの」
声は静かだった。
「私たちが若くて、
あまりに頼りなかったから」
源次郎が、重く口を開く。
「俺は、大工だ」
低い声。
「土台が腐った家は、建て直す。
あの時の慎一は……危なかった」
一瞬、言葉が詰まる。
「だから、大介っていう一番大事な柱だけは、
日当たりのいい場所へ移そうと思った」
拳を握る。
「……それが、俺のやり方だった」
大介は、言葉を失った。
自分の人生は、
かつて別の場所に移されるはずだった。
今ここにある
この騒がしい九人の食卓は、
当たり前ではなかった。
「……じゃあ」
大介が、かすれた声で言う。
「どうして、僕はここにいるんですか」
慎一は、ワインを飲み干し、
真正面から息子を見た。
「恵美がな……」
声が、少し揺れる。
「玄関で、親父に土下座した」
恵美が、顔を伏せる。
「『この子を離すくらいなら、
家族全員で路頭に迷った方がマシだ』って」
慎一は続ける。
「『一日一食でもいい。
私が働いて、この子を抱えて生きる』ってな」
恵美は、小さく笑った。
「必死だったのよ。
理屈じゃなかった」
目を伏せたまま言う。
「お箸が足りなければ、私の分を削ればいい。
寝る場所がなければ、私が起きていればいい。
……ただ、この子と離れる未来だけは、選べなかった」
慎一は、深く息を吸う。
「その姿を見て、
俺も腹を括った」
静かに続ける。
「頭を下げて、仕事を探して……
逃げなかった」
大介を見る。
「完璧な親じゃない。
何度も、逃げたくなった」
でも、と言ってから、
「お前と一緒にいることだけは、
諦めなかった」
沈黙が落ちる。
花が寝言で「ぱぱ……」と呟いた。
大介は、目の前の箸を見る。
ただの道具じゃない。
母が守り、
父が稼ぎ、
祖父が一度は手放そうとして、
それでも残した――居場所。
「……僕」
大介の声が震える。
「自分がここにいるの、当然だと思ってました」
唇を噛む。
「でも、違った。
僕は……何度も選ばれてきたんですね」
真央が、そっと肩に寄り添う。
「ありがとう……
大介くんを、ここに残してくれて」
「よせ」
源次郎が鼻を鳴らす。
「湿っぽいのは好かん」
少しだけ、間を置いて言う。
「大介。
お前も、その三人に同じことをしろ」
目を逸らしたまま。
「何があっても、手を離すな。
それだけが、この家の決まりだ」
芳江が、新しい箸を一本、
大介の前に置いた。
「さあ。
刺身が乾くわ」
優しく微笑む。
「あなたは、この家の大事な長男坊よ」
大介は、箸を握る。
その重みを、確かに感じながら。
人生は、もらいものだ。
祈りと、我慢と、
諦めなかった瞬間でできている。
二十九年目にして知った、家族の正体。
お箸が足りないのは、
誰かが誰かを思って、
自分の分を譲り続けてきた証だった。
「いただきます」
その声は、
これまでで一番、強かった。
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