第6話|司令塔、いなくなります
第6話|司令塔、いなくなります
朝六時。
いつもなら、キッチンから包丁の軽やかな音が聞こえてくる時間だった。
出汁の匂い。
フライパンの油が温まる音。
恵美の「起きてる人から座って!」という声。
――それが、ない。
家は、異様なほど静まり返っていた。
リビングのテーブルの中央に、一枚の便箋が置かれている。
まるで、そこだけ時間が止まったように。
『しばらく実家に帰ります。
冷蔵庫のものは適当に食べてください。
無理。限界。』
短い文面だった。
言い訳も、説明もない。
「……無理、って」
慎一は、ネクタイを半分結んだまま、立ち尽くしていた。
「冗談だろ……」
背後では、花が泣いている。
大介は二歳の身体を抱え直しながら、太一に袖を引かれていた。
「パパ、ママは?」
「お腹すいた……」
「母さん……?」
洗面所から、真央の声が飛んでくる。
「大介くん! 洗濯機、止まっちゃった!
エラー出て、動かない!」
若夫婦が持ち込んだドラム式洗濯機は、
九人分の衣類を詰め込みすぎて、
絶望的な電子音を繰り返していた。
キッチンを見渡す。
昨夜のままのシンク。
積み重なった食器。
漂うのは、出汁の匂いではなく、
少しだけ残った、昨日の生臭さ。
「……腹が減った」
和室から、源次郎が腹巻き姿で現れた。
「飯はどうした」
「親父、それどころじゃない」
慎一が振り向く。
「恵美が……いないんだ」
「なんだと?」
源次郎の眉が吊り上がる。
「あいつ、俺の朝飯も放り出して、どこへ行った」
「お父さん、そういう言い方……!」
言葉がぶつかり、空気が冷える。
誰もが、自分の“当たり前”を失って苛立っていた。
それが、誰かの労働の上に成り立っていたことを、
この瞬間まで考えたことがなかった。
「……うるさいねえ」
低い声がした。
ソファの隅で新聞を読んでいた芳江が、ゆっくりと立ち上がる。
七十五歳の背筋は、驚くほどまっすぐだった。
「芳江さん、恵美が……」
慎一が縋るように言いかけるが、
芳江は視線だけで制した。
「壊したのは、あなたたちよ」
声は静かだった。
「自分の箸がどこにあるかも知らない男たちが、
寄ってたかって、あの子を使い切った」
一拍、置く。
「今日から、この家は私のやり方で回します」
芳江はキッチンに向かい、
山のような食器を指差した。
「源次郎さん。
自分の茶碗は、自分で洗いなさい」
「な、何を言う」
源次郎が目を剥く。
「俺は七十五年、台所なんぞ――」
「じゃあ今日は、七十六年目の初日ね」
芳江は、淡々と続ける。
「洗わないなら、昼飯はなし」
次に慎一を見る。
「あなたは、ゴミ袋をまとめなさい。
出勤前に」
大介を見る。
「洗濯機。
機嫌を取ってきなさい」
真央を見る。
「子どもたちの着替え。
親の仕事よ」
最後に、自分の胸に手を当てる。
「私は、私の朝ごはんを作る」
「え……俺たちの分は?」
慎一が、呆然と聞いた。
「自分のことは、自分で」
芳江は卵を一つ取り出し、
小さなフライパンで焼き始める。
ジュッ、という音が、
この朝いちばん残酷に響いた。
そこから先は、混乱だった。
源次郎は慣れない手つきで洗剤を泡立て、
お気に入りの茶碗を割った。
「……ああ!」
「親父、危ないって!」
「うるさい!
お前は袋の縛り方も知らんのか!」
慎一はゴミ袋を引きずり、
大介は洗濯機の排水フィルターから
泥だらけの子どもの靴下を引きずり出す。
その汚れを見て、息を呑んだ。
――これを、毎日。
「……甘えてた」
大介が呟く。
「甘えすぎよ」
真央が、泣きそうな声で言う。
「お義母さん、これ全部……
仕事のあと、一人で」
昼。
食卓には、不格好なおにぎりと、
焦げた卵焼きが並んだ。
源次郎は、まだ油の残る皿を見つめ、
黙って口に運ぶ。
「……固いな」
一拍。
「……だが、食える」
芳江は、九人分の箸を、あえて揃えずに置いた。
「足りないんじゃないわ。
並べてもらうのを、待ってるから足りなくなるの」
誰も、反論しなかった。
夕方。
大介のスマホに、写真が届く。
温泉地で、地ビールを手に笑う恵美。
見たことのない、軽い顔。
『明日の夜には帰るわ。
台所、爆発してないでしょうね?』
「……爆発寸前」
大介は苦笑しながら返信した。
『でも、九人で食卓は囲めてる』
その夜。
味はばらばら。
箸も不揃い。
けれど、
自分で用意した一膳は、
これまでよりずっと重かった。
「ばあば!」
太一が箸を掲げる。
「自分で持ってきたよ!」
左右の長さは違っていたが、
芳江は、今日初めて優しく笑った。
「えらいわ」
司令塔はいない。
だからこそ、この家は、
少しだけ、自分の足で立ち始めた。
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