第5話|教える人が多すぎる

第5話|教える人が多すぎる


リビングの空気は、低く、湿っていた。

九人が囲む食卓の中央には、場違いなほど整然とした山ができている。


塾のパンフレット。

使い込まれた書道道具。

「一年生になったら」と書かれた、真新しい雑誌。


どれも、太一の未来を思って集められたものだった。


「だからさ……」


大介がタブレットを持ち上げ、画面を皆に向ける。


「今は、英語とプログラミングが当たり前の時代なんだ。

太一が困らないように、早めに触れさせてあげたいだけで」


慎重な言い方だった。

けれど声の端には、焦りが滲んでいる。


「私の同僚の子も、みんな通ってるんです」


真央が、静かに付け足す。


その瞬間、テーブルが小さく揺れた。


「環境だと?」


源次郎が、拳を置いたのだ。

湯呑みの中のお茶が、わずかに波打つ。


「そんなもん、外で走り回ってりゃ勝手に整う。

いいか、太一」


源次郎は、太一の正面に身を乗り出す。


「字だ。

字が汚ねえ奴は、心も荒れる。

俺が毎日、この和室で見てやる。

英語だの何だのは、その後でいい」


大介との距離は、近すぎた。


「どこの馬の骨とも分からん奴に、金払って教わる必要はねえ」


「お義父さん」


真央が、声を抑えて言う。


「大工の修行と、小学校の勉強は別です。

それに……時代が違います」


「時代、時代と……」


源次郎が吐き捨てる。


「時代が変わっても、人の根っこは変わらねえ!」


「お父さん、そんな言い方しなくてもいいでしょ」


片付けを中断した恵美が割って入る。


「大介たちも必死なのは分かるけど、

入学前から詰め込みすぎよ。

今は、遊んで、寝て……それでいいじゃない」


恵美は、隣の慎一を見る。


「ねえ、慎一さんからも言って」


慎一は、缶ビールを持ったまま視線を泳がせた。


「……まあ、みんな太一のこと考えてるんだし、

そこまで角を立てなくても……な?」


「どっちなのよ」


恵美と大介の声が、重なった。


源次郎が、ふん、と鼻を鳴らす。


「塾なんてのはな、親が楽したいだけだ。

俺がいるだろうが。

背中を見て覚えりゃいい」


「それは……違います」


大介の声が、少しだけ強くなる。


「太一の人生です。

僕たちが“正しい”と思う道を、押し付けるものじゃない」


言葉が、空中でぶつかり合う。

誰も譲らない。

誰も間違っていない。


そのとき、椅子が、きい、と鳴った。


太一が、立ち上がっていた。


「……あのね」


小さな声だった。

けれど、不思議と通った。


怒鳴り声が止まり、九人の視線が集まる。

ランドセルの色さえ、まだ決まっていない六歳。


太一は、源次郎を見て、

大介と真央を見て、

最後に、恵美と慎一を見た。


「ぼくね……プログラミング、やってみたい」


大介の喉が、小さく鳴った。


「パパみたいに、パソコン動かせるの、かっこいいもん」


次に、源次郎を見る。


「じいじの字も、すごいよ。

強くて、まっすぐで」


一瞬、源次郎の眉が動いた。


「公園で鬼ごっこするのも好きだよ。

ばあばが言うみたいに」


太一は、ズボンの裾をぎゅっと握る。


「でも……」


声が、少し震えた。


「みんながケンカしないなら、それでいい。

ぼく、何も習わなくていい。

みんながニコニコして、ごはん食べてくれるなら……」


言葉が、そこで止まる。


リビングが、しんと静まり返った。

エアコンの微かな音と、

床で花が積み木を転がす音だけがする。


「……太一」


真央の声が、かすれた。


「ぼく、一年生になるの、楽しみだったんだよ」


太一は、小さく頭を下げる。


「でも……ぼくのせいで、みんなが怒るの、悲しい。

ごめんね」


六歳の子どもが、

この家でいちばん深く、頭を下げた。


大介は、タブレットをテーブルの下に伏せた。

冷たい、ただの機械に見えた。


源次郎も、行き場を失った拳を、

ゆっくりと膝の上に置いた。


「……いや」


慎一が、ようやく口を開く。


「謝るのは、俺たちだ。

太一のためだって言いながら、

太一の声、聞いてなかった」


芳江が、そっと太一の背中に手を置く。


「この子はもう、

自分のことより、みんなのことを考えてる。

……一番大人なのは、太一ね」


源次郎が、咳払いをして立ち上がった。


「……フン」


視線を逸らしたまま言う。


「やりたいなら、パソコンでも何でもやれ。

だがな」


少し、間を置く。


「ノートの端でいい。

たまには、俺に字を見せろ」


それが、精一杯の譲歩だった。


「……うん!」


太一の顔が、ぱっと明るくなる。


「じいじ、教えて!」


張りつめていた空気が、ふっと緩んだ。


「じゃあ、決まりね」


恵美が、深く息をつく。


「習い事は太一が選ぶ。

でも、じいじとの時間も作る。

……それでいい?」


大介と真央は、静かに頷いた。


「お箸、また一本足りないな」


大介が苦笑し、

自分の割り箸を割って、太一に半分渡す。


「はい、半分こ」


「ありがとう!」


この家は、教える人が多すぎる。

でもそれは、誰一人として、この子を独りにしないということでもある。


「ぼくね!」


太一が、胸を張る。


「字も、パソコンも、どっちも一番になるから!」


笑いが戻る。

正解は一つじゃない。


九人いれば、九通りの“太一の幸せ”がある。

それを全部抱えながら、

この家族はまた、騒がしい明日へ進んでいく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る