第4話|迷子といちばん小さな地図
第4話|迷子といちばん小さな地図
源次郎にとって、この町の路地は手のひらのようなものだった。
若い頃は大工として何軒もの家を建て、どこの角にどの家の犬がいて、どの塀にどの季節の花が咲くか――そんなことまで、頭に入っていた。
「じいじ、おはな! おはな、きれい!」
二歳の花が、節くれ立った人差し指を小さな手で握りしめ、道端のパンジーを指差して跳ねる。
午後の日差しは柔らかく、住宅街はあくびが出るほど静かだった。
「ああ、きれいだな」
源次郎は短く答え、歩幅を合わせる。
花の歩き方は、まっすぐではない。寄り道だらけだ。
それでも、握られた指先の温かさが、妙に確かだった。
「……さあ、帰るぞ。もうすぐおやつの時間だ」
いつものように胸を張って角を曲がった――その瞬間だった。
視界が、ほんの少し、ずれた。
(……ここは……どこだ)
目の前には、真新しい白い壁の家が並んでいる。
見覚えがないわけではない。たぶん、昨日もここを通った。
けれど、いつもなら自然に繋がるはずの道筋が、今は繋がらない。
右か、左か。
たったそれだけのことが、決められない。
「確信」というものだけが、指の間から砂のように落ちていく。
背中に、嫌な汗が滲んだ。
心臓の音が、耳の内側で大きくなる。
「……じいじ?」
花が見上げる。澄んだ瞳が、少しだけ不安げに揺れている。
源次郎は、笑おうとした。
けれど口の端が固まって、代わりに声だけが出た。
「……分かっとる。こっちだ」
強がって、反対側を選ぶ。
足を動かせば、身体が勝手に思い出すはずだ――そう思った。
けれど、進めば進むほど景色は他人行儀になっていった。
電柱がやけに高く見える。
空が広すぎる。
道が、果てしなく感じられる。
自分という存在が、急に薄くなっていくような怖さ。
「……おい……芳江……」
誰に聞かせるでもなく、声が漏れた。
「……恵美……」
名前を口にした途端、喉が熱くなった。
七十五年。
迷うことなく歩いてきた人生で、初めて「道」を失う。
「じいじ、いたい」
花が顔をしかめた。
源次郎は自分の手を見て、はっとする。
握る力が、強すぎた。
「あ……悪い」
手を緩め、その場にしゃがみ込む。
膝が、うまく言うことを聞かない。
「……花。じいじは、ちょっと……疲れただけだ」
言い訳のような言葉が、風に散った。
その時、花が源次郎の指をぐい、と引いた。
小さな指先が示したのは、さっき通り過ぎた角――源次郎が選ばなかった道だった。
「じいじ、あっち! ワンワン、いたよ。あっち!」
「あっち……か」
花は迷いのない足取りで歩き出す。
地図も方角も関係ない。
ただ、さっき見た犬、さっき咲いていた花。
記憶の欠片を、身体で繋いでいる。
源次郎は、よろよろと立ち上がった。
自分よりずっと低い位置にある背中を追う。
――いちばん小さくて、いちばん確かな道しるべ。
「あ、ワンワン!」
花が指差した先に、近所の柴犬の家があった。
そこまで来た瞬間、源次郎の頭の中の霧がふっと晴れた。
ここから二つ角を曲がれば、あの家だ。
騒がしくて、腹の立つ――それでも帰る場所。
玄関先に、恵美と真央が立っていた。
心配がそのまま顔に出ている。
「お父さん! 遅いから心配したのよ!」
「源次郎さん、大丈夫ですか?」
源次郎はいつものように「心配しすぎだ」と言おうとした。
けれど声が出なかった。
代わりに、隣で得意げに笑う花の頭を、震える手で何度も撫でた。
その夜の食卓は、いつもより少しだけ静かだった。
源次郎が大好きな魚に箸をつけず、黙って花の食べ方を見ていたからだ。
「じいじ、どうぞ!」
花がスプーンで掬ったカボチャを、源次郎の口へ運ぼうとする。
いつもなら「子どもじゃない」と払いのけるはずの手が、今日は動かない。
源次郎は小さく口を開け、それを受け取った。
「……甘いな」
噛みしめるように言う。
「よくできたカボチャだ」
食卓の空気が、微かに震える。
慎一も、大介も、恵美も。
この家の絶対的な導き手だった源次郎が、いま幼子に守られている。
切なくて、でも――不思議と温かい。
「お父さん、明日の散歩は……私が一緒に行くわね」
恵美が、さりげなく言った。
「……好きにしろ」
返事は、怒鳴り声ではなかった。
弱々しいというより、初めての“受け入れ”に近い声だった。
真央は箸を置き、そのやり取りをじっと見つめる。
守る側と、守られる側。
境界線は、いつの間にか溶けて、入れ替わっていく。
家族とは、そういう生き物なのかもしれない。
「お箸、また足りないわね」
芳江が、ぼそりと言う。
「……でも、いいわ。九人分の椅子があるだけで」
源次郎は何も言わない。
ただ、自分の隣の花が、ぎこちなく箸を持つ指先を、ずっと見つめていた。
道は、分からなくなってもいい。
この小さな指が指し示す場所が、
自分の帰るべき家なのだから。
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