第3話|父たちは夜に集まる
第3話|父たちは夜に集まる
夜十時半。
街灯の光が、白くにじむ公園のベンチ。
カラン、と自販機の取り出し口で乾いた音がした。
大介は取り出した二本の缶コーヒーのうち、少しだけ値段の高い「微糖」を隣に差し出す。
「……ああ、悪いな」
慎一は、くたびれたスーツのまま腰を下ろし、缶を受け取った。
プシュッという音が、夜の空気に吸い込まれていく。
「家……まだ騒がしいか」
「ええ。花がなかなか寝なくて。
それに、じいじが時代劇の音量下げないから、太一まで目が冴えちゃって」
大介はブラックコーヒーを一口飲む。
熱が喉を通るたび、固まっていた肩が、ほんの少しだけ緩んだ。
在宅勤務という言葉は、実家では通用しなかった。
Zoom会議の最中に次郎が画面に飛び込み、
廊下では恵美の掃除機が唸りを上げる。
さらに背中には、
「若いくせに、家でパチパチやってるだけか」
と言いたげな源次郎の視線。
「……親父もな」
慎一が、暗がりを見つめたまま言う。
「悪気はないんだろう。
あの人は、『汗を流して働くのが男だ』って時代の人だから」
缶を傾け、続ける。
「俺も会社で、板挟みだ。
部下にはハラスメントだって睨まれ、上司には数字を詰められる。
脂汗は、十分流してるんだけどな……家じゃ、誰も見ちゃいない」
慎一の手に握られた缶が、わずかに震えた。
街灯に照らされたその手は、
大介の記憶にある“何でもできる父”の手ではなかった。
節くれ立った、
少し頼りなく見える、一人の男の手だった。
「……大変ですね」
「大変、じゃ足りないな」
慎一は苦笑し、残りを一気に飲み干した。
「お前たちが戻ってきて、賑やかなのは嬉しい。
でもな、玄関を開けた瞬間に、
父親と、息子と、夫を同時にやらされる」
一呼吸置く。
「靴の揃え方で恵美に言われ、
親父には小言を言われ……
俺の“個”って、どこにあるんだろうな。
時々、わからなくなる」
大介は、静かに頷いた。
「僕もです。
真央には『もっと育児に関わって』って言われるし、
仕事の納期は待ってくれない」
言葉を選びながら、続ける。
「家の中に、仕事のスペースを作ろうとしたら、
母さんに『家族を仕切るの?』って言われて。
……僕、何のためにここにいるんだろうって」
夜風が、木々をざわつかせる。
これまで二人の間にあった「親子」という線が、
いつの間にか薄くなっていた。
「父親ってさ……」
慎一が、空になった缶を握りしめる。
「ちゃんとやってる実感、ないよな。
給料を運んで、叱って、遊び相手になって。
それが本当に家族のためなのか、
ただ役割をこなしてるだけなのか……」
小さく息を吐く。
「自信が持てない。
この歳になってもな」
「……親父でも、そう思うんですか」
「思うさ。毎日だ」
慎一は、少し間を置いてから言った。
「お前が生まれた時も、今も同じだ。
三人の子どもを連れて戻ってきた時……
正直、少し羨ましかった」
大介は、思わず顔を上げた。
「俺にはできなかった決断だ。
家族のために、形を変えるっていう選択をな」
しばらく、二人とも黙ったままだった。
「大介」
慎一が、ゆっくり言う。
「お前は、ちゃんとやってる。
俺みたいに、黙ってやり過ごすだけが父親じゃない」
肩に、軽く手が置かれる。
「お箸が足りなきゃ、買えばいい。
この家を、お前たちの色に染めていく勇気を持て。
俺は……それを、どこかで応援してる」
その手の温かさは、
運動会で転んだ時に差し出された、
あの手と同じだった。
「……ありがとうございます」
大介は、それ以上言えなかった。
鼻の奥が、少しだけ熱くなる。
「よし、帰るか」
慎一が立ち上がる。
「そろそろ、恵美が
『いつまで油売ってるの』って顔で窓から見てる頃だ」
「……ですね」
二人はベンチを立ち、
よく似た猫背で歩き出す。
九人が待つあの家は、
外から見ると、窓の明かりがやけに温かい。
中に入れば、息苦しい場所なのに。
それでも、隣に父の足音があるだけで、
「孤立」という重さが、少し軽くなった。
「親父、今度の休み……
あのお箸、買いに行きませんか。九膳セットの」
「いいな。
ついでに、親父のテレビ用イヤホンも探すか」
玄関のドアを開ける。
「ただいまー」
二人の声が重なり、
中から「遅い!」「お帰りなさい」「ぎゃあ!」が同時に返ってくる。
不揃いで、騒がしくて、
確かに生きている音だった。
二人の父は顔を見合わせ、苦笑し、
再び“戦場”へと足を踏み入れる。
九人の食卓に、空席はない。
それでも心のどこかに、
夜の公園という小さな椅子が、
一つずつ増えていた。
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