第2話|キッチンに立つ女たち

第2話|キッチンに立つ女たち


夕闇が、台所の窓ガラスにじわじわと滲みはじめる。

時計は午後五時半を指していた。


コンロの前には、二つの鍋が並んでいる。

片方は、年季の入った雪平鍋。

もう片方は、光沢のある自動調理鍋。


立ち上る湯気の匂いも、温度も、どこか噛み合っていなかった。


「真央さん、そのお浸し……もう少しお醤油、足していいわよ」


恵美は、まな板の上で包丁を動かしながら言った。


「源次郎さん、薄いと物足りないって言うから」


「……でも、お義母さん」


真央は、手元の操作パネルから目を離さずに答える。


「血圧のこともありますし。この出汁パック、減塩ですけど、ちゃんと旨味が出るタイプなんです」


雪平鍋からは、鰹節と醤油の、懐かしい匂いが立ちのぼっている。

一方で、自動調理鍋は設定温度を守り、音もなく仕事をしていた。


効率。

栄養。

失敗しないための数値。


二人の肩が、狭いキッチンでかすかに触れ合う。


「これね、一度火を止めて、少し寝かせた方が味が染みるのよ」


「それだと、六時半になります。

子どもたちが空腹で荒れる前に、高火力で一気に仕上げちゃいませんか」


恵美は包丁を止め、真央の横顔を見た。


若くて、迷いがなくて、一生懸命だ。

かつてこの家に嫁いできた自分の姿とは、ずいぶん違う。


――強い。


それが少し、眩しくて。

ほんの少しだけ、苦かった。


「ママ、お腹すいたー!」


背後から、次郎の声が飛んでくる。


「次郎、今はキッチン来ないでって言ったでしょ!」


真央の声が、思った以上に鋭くなる。

油の弾く音、換気扇の唸り、子どものぐずる声。

キッチンの温度は、確実に上がっていた。


そこへ、畳を擦る足音が近づいてくる。


源次郎だった。


鼻を鳴らし、テーブルの上に置かれた真央の鍋を覗き込む。


「……なんだ、この色は。白っぽいな」


「無水で、低温調理してるんです。

ジャガイモの形を残して、ビタミンも――」


「死んでるな、ジャガイモが」


源次郎は、言葉を被せるように続けた。


「飯ってのはなあ、茶色いほどいいんだ。

恵美、いつものはないのか。あの、喉にガツンとくるやつ」


彼の指が、端で煮込まれていたカレイの煮付けを示す。


「ほら、これだ。

余計な理屈はいらん。

口に入れた瞬間に、『生きてる』って思える味じゃなきゃな」


その言葉が、真央の胸に冷たく落ちた。


健康を考えた一時間。

スマホと睨み合った時間。

それが、たった一言で「理屈」になる。


真央の指先が、わずかに震える。


「……すみません。

お義父さんには、私の料理、合わないみたいですね」


「ちょっと、お父さん!」


恵美が声を上げるが、源次郎は肩をすくめるだけだった。


「本当のことを言っただけだ」


そう言い残し、居間のテレビの前へ戻っていく。


キッチンに残ったのは、換気扇の音だけだった。


恵美は、真央の背中に手を伸ばしかけて、止めた。

今は、どんな言葉も重くなると分かっていた。


「……ねえ、真央さん。ちょっと味見して」


恵美は、煮付けの汁をお玉ですくい、差し出した。


真央は迷いながらも、口に含む。


強い塩気。

後から追いかけてくる、砂糖の甘さ。


身体にいいとは言えない。

けれど、汗を流して働いた男たちが、白い飯をかき込むためだけに存在する、一直線の味だった。


「……濃い、ですね」


「そう。濃いの」


恵美は苦笑する。


「でもね、あのおじいさんは、この味で五十年生きてきたのよ。

今さら、身体にいいものを選ぶ人生じゃないのかもしれない」


今度は、恵美が真央の肉じゃがを口にする。


「……おいしい。

ジャガイモが、ちゃんとジャガイモね」


真央の肩から、力が抜けた。


正解が一つなら、楽だった。

恵美が守ってきたのは、家族の記憶の味。

真央が作ろうとしているのは、これからの家族の味。


どちらも間違っていないから、この家の食卓は、いつも何かが溢れて、何かが足りない。


「……明日の朝食、半分ずつ作りませんか」


「半分?」


「はい。

お義父さんには、真っ黒な焼き魚。

子どもたちには、私のスムージー。

……私たちは、その両方を、少しずつ」


恵美は一瞬考え、ふっと笑った。


「いいわね。

お箸は足りないけど、おかずだけは無駄に多い食卓になりそう」


六時半。

九人が、それぞれの場所に座る。


テーブルの上には、茶色い煮付けと、鮮やかな緑のサラダが並んでいた。


「いただきます!」


声が重なる。


源次郎は煮付けに手を伸ばし、

子どもたちは色のきれいな料理を頬張る。


恵美と真央は、黙って皿を交換し、互いの味を確かめ合った。


正解が増えすぎたキッチンは、まだ暑くて、騒がしい。

それでも、二つの鍋から立ち上る湯気は、少しずつ混ざり合い、

この家の匂いになろうとしていた。


「お箸……やっぱり、もう一膳、予備がいるわね」


「私、明日ネットで九膳セット探しておきます」


戦場だった場所に、わずかな静けさが戻る。

雨上がりのような、短い休息だった。


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