第2話|キッチンに立つ女たち

第2話|キッチンに立つ女たち


夕闇が迫る午後五時半。台所には、二つの異なる「正義」が火花を散らしていた。


「あ、真央さん、そのお浸し。もうちょっとお醤油足していいわよ。源次郎さんが物足りないって言うから」 「お義母さん、でも血圧のこともありますし……。この出汁パック、減塩でもしっかり旨味が出るタイプなんです」


恵美が使い慣れた大きな雪平鍋からは、鰹節と醤油の、どこか懐かしくも濃い香りが立ち上っている。対する真央の手元には、スタイリッシュな自動調理鍋。設定温度を1度刻みで管理し、栄養素を壊さない「効率」という名の魔法をかけていた。


コンロの前で、二人の女の肩がかすかにぶつかる。


「これ、一度火を止めて寝かせた方が味が染みるのよ」 「それだと完成が六時半になっちゃいます。子供たちが空腹で暴れ出す前に、高火力で一気に仕上げちゃいませんか?」


恵美は、まな板の上でリズミカルに包丁を動かしながら、ふと真央の横顔を見た。 若くて、合理的で、一生懸命。 かつて自分がこの家に嫁いできた頃の、おどおどした姿とは正反対の強さがそこにはある。それが少しだけ、眩しくて、そして苦い。


「ママ、お腹空いたー!」 「次郎、今はキッチンに来ちゃダメって言ったでしょ!」


四歳の次郎が恵美の膝に抱きつき、真央がそれを鋭い声で制す。油の跳ねる音、換気扇の唸り、そして子供のぐずる声。台所の温度は、確実に平熱を超えていた。


そこへ、畳を擦る足音が近づいてくる。源次郎だ。 彼は鼻をクンクンと鳴らし、食卓の中央に置かれた真央の自信作「無水低温調理の肉じゃが」を覗き込んだ。


「なんだ、この色は。随分と白っぽいな。ジャガイモが死んでるぞ」 「お義父さん、これはジャガイモの形を残して、ビタミンを……」 「飯ってのはなあ、茶色ければ茶色いほどいいんだ。恵美、いつものアレはないのか。あの、喉にガツンとくる真っ黒な煮付けだよ」


源次郎は、真央の説明を遮るようにして、恵美が端っこで作っていたカレイの煮付けを指差した。


「ほら、これだ。やっぱり昔の飯が一番うまかったな。余計な理屈はいらん。口に入れた瞬間に『生きてる』って味がしなきゃ、食った気がせんわ」


その一言が、真央の心に冷たい水を浴びせかけた。 効率を考え、健康を思い、必死にスマホのレシピサイトと格闘した一時間が、たった数秒で「理屈」と片付けられてしまった。


真央の指先が、わずかに震える。 「……すみません。お義父さんには、私の料理は合わないみたいですね」


「ちょっと、お父さん! 余計なこと言わないでよ」 恵美が慌てて割って入るが、源次郎は「本当のことを言って何が悪い」と吐き捨てて、居間のテレビの前へと戻っていった。


静まり返ったキッチンに、換気扇の音だけが虚しく響く。 恵美は、真央の背中にそっと手を伸ばしかけて、止めた。今の真央に、どんな言葉をかけても「同情」か「説教」にしか聞こえないことを、五十二歳の経験が知っていたからだ。


「……ねえ、真央さん。ちょっと味見してみて」 恵美がお玉ですくい上げたのは、源次郎が絶賛した煮付けの汁だった。


真央は躊躇しながらも、それを口に含む。 舌に刺さるような塩気。後から追いかけてくる、ガツンとした砂糖の甘み。それは決して健康的とは言えないけれど、重労働を終えて帰ってきた男たちが、真っ白い飯をかき込むためだけに研ぎ澄まされた、暴力的なまでの「旨さ」だった。


「……濃い、ですね」 「そう。濃いのよ。でもね、あのおじいさんは、この味で五十年間生きてきちゃったの。もう今さら、身体にいいものなんて求めてないのかもしれないわね」


恵美は苦笑いしながら、真央の作った肉じゃがを一口食べた。 「……あ、美味しい。ジャガイモが、ちゃんとジャガイモの味がする」


真央は、ふっと肩の力を抜いた。 正解が一つなら楽だった。 恵美の守ってきた「家族の記憶」という味。 真央が作ろうとしている「家族の未来」という味。 どちらも正しいからこそ、この九人という大所帯の食卓は、いつも何かが溢れ出し、何かが足りなくなる。


「お義母さん、明日の朝食、半分ずつ作りませんか」 「半分?」 「はい。お義父さんには、真っ黒な焼き魚。子供たちには、私のスムージー。……真ん中の世代の私たちは、その両方をちょっとずつ、つまみ食いするってことで」


二人は顔を見合わせ、初めて小さく笑った。


「いいわね。お箸は足りないけど、おかずの種類だけは無駄にある食卓になりそう」


六時半。 九人が席につく。 テーブルの上には、茶色い煮付けと、鮮やかな緑色のサラダが同居していた。


「いただきます!」


元気な声が重なる。 源次郎は相変わらず煮付けに手を伸ばし、子供たちは真央の作った色鮮やかな料理を頬張る。 恵美と真央は、互いの作った料理を黙って交換し、それぞれの「正義」の味を確かめ合った。


正解が増えすぎたキッチンは、まだ少し騒がしくて、暑苦しい。 けれど、二つの鍋から立ち上がる湯気は、ゆっくりと時間をかけて、一つの家の匂いになろうとしていた。


「お箸、やっぱりもう一膳、予備を買ってこなきゃね」 恵美が呟くと、真央が「私が明日、ネットで九膳セットのいいやつ探しておきます」と答えた。


戦場だった場所は、ほんの少しだけ、雨上がりのような静けさを取り戻していた。


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