第1話|おはようの前に、もう疲れている
第1話|おはようの前に、もう疲れている(改稿)
洗面所のプラスチックのコップに、九本の歯ブラシが刺さっている。
その光景を見ただけで、大介は軽いめまいを覚えた。
「パパ、太一が押した!」
「僕じゃないよ、次郎が先に割り込んだんだもん!」
背後で、六歳と四歳の小競り合いが始まる。
二歳の花は、大介のパジャマの裾をつかみ、「ちっこ、ちっこ」と切羽詰まった声を上げていた。
まだ朝の六時十五分。
築三十年の実家の廊下は、引っ越しの段ボールと子どもたちの体温で、逃げ場のない熱を帯びている。
「ちょっと、男子たち! 静かにしなさい。じいじがまだ寝てるでしょ!」
一階のキッチンから、母・恵美の声が飛んだ。
その直後、奥の和室から地響きのような咳払いが返ってくる。
「……起きてるわ。こんな騒がしくて、寝てられるか」
襖が荒々しく開き、祖父・源次郎が姿を現した。
腹巻きを直し、不機嫌をそのまま顔に貼りつけたような表情で、トイレの前に立つ。
大介と子どもたちは、無言のまま左右に分かれた。
まるで、道を開けることが自然の摂理であるかのように。
「おはよう、親父……悪いな、朝から」
階段を降りてきた父・慎一は、ヨレヨレのスーツにネクタイを通しながら言った。
その背中には、「会社に行く前から、もう帰りたい」と書いてある気がした。
キッチンから、味噌汁の湯気が流れてくる。
パンが焼ける香ばしい匂いに、柔軟剤の甘さが重なり合う。
若夫婦が持ち込んだドラム式洗濯機が、脱水音を立て、家全体を小刻みに震わせていた。
「ねえ、私のプリンは?」
冷蔵庫の扉を開けたまま、真央が立ち尽くす。
「昨日の夜、楽しみに取っておいたのに……」
「あ、それ……」
大介は言葉を探した。
「源次郎さんが『これ誰のだ?』って聞いてたから、てっきり……」
「大介くん!」
真央の声が、ほんの少しだけ高くなる。
「あれ、夜勤明けに食べようと思ってたの」
「なんだ、あの黄色い菓子か」
源次郎が、新聞を畳みながら言う。
「甘すぎて一口でやめた。向こうの棚に置いてある」
そう言って、テレビのリモコンを押す。
大音量のニュースが、リビングの空気を一気に切り裂いた。
「じいじ、音おおきい!」
太一が耳を塞ぐ。
「聞こえんのだから仕方ないだろ。嫌なら二階へ行け」
朝の空気は、すでに張りつめていた。
恵美がカウンター越しに、大皿を次々と並べる。
「はい、座って! 全員!
花ちゃんはハイチェアね。
真央さん、悪いけど、そこにある取り皿配ってくれる?」
九人が食卓を囲む。
――正確には、囲みきれていない。
椅子が足りず、慎一はキッチンカウンターの端で立ったまま。
子どもたちはラグに座り、食卓の高さを見上げている。
「いただきます……」
声は揃わない。
それぞれのタイミングで、ばらばらに始まった。
真央は、自分の前に置かれたお盆を見て、ふと手を止めた。
「……お箸、足りなくない?」
引き出しから出てきたのは、八膳。
それと、色の違う子ども用の予備が一本。
「ああ、ごめん。一本、どこか行っちゃったのかしら」
恵美はそう言って、何のためらいもなく菜箸を手に取った。
その様子を見て、真央の胸に、小さな棘が刺さる。
――お箸一膳分の余白すら、この家にはないのかもしれない。
「真央、俺の使うか?」
「いい。私、キッチン探してくる」
立ち上がった瞬間、花が泣き出した。
「ママ、だっこ!」
次郎が味噌汁をこぼし、
「行儀が悪い!」と源次郎が怒鳴る。
芳江は、そんな光景を少し離れた場所から見つめながら、黙ってたくあんを噛んでいた。
まるで、今日という一日を、すでに一度通り過ぎた人のように。
慎一が、空になった茶碗を置いて立ち上がる。
「……じゃあ、俺、行くわ」
「パパ、もう行くの?」
「ああ。会社のほうが……まだ静かだからな」
冗談とも本音ともつかない言葉を残し、慎一は玄関へ向かった。
外は、突き抜けるような青空だった。
けれどこの家の天井は、九人分の息と感情で、低く垂れ込めている。
大介は、冷めかけた目玉焼きを口に運ぶ。
醤油の味が、記憶の中の実家より、やけに濃かった。
同居とは、互いを尊重することではない。
互いの領域に、否応なく踏み込むことだ。
「……行ってきます」
ノートパソコンを抱え、大介は二階へ上がる。
かつて自分の部屋だった場所。
今は、物置のようになった空間へ。
背後では、テレビの音に重なるように、
恵美の叱咤と子どもたちの泣き声が続いていた。
生活という名の雪崩。
一度飲み込まれたら、元の形には戻らない。
階段を上りながら、大介はスマホで
「仕切り板 通販」と検索する。
せめて、数センチでもいい。
自分たちの居場所を確保しなければ、
この家で迎える明日を、想像できなかった。
九人の食卓。
お箸が足りないのは、ただの不注意ではない。
ここが、
誰ひとり「他人」でいられない場所になるための――
最初の洗礼だった。
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