近く遠くにいる君へ
いすず さら
近く遠くにいる君へ
第1章:春、きみを見つけた
大学に入ってから、最初の春は驚くほど静かだった。
賑やかな入学式、初めての講義、ガイダンス、履修登録。新しいことだらけの中で、僕――水野夏樹は、どこかぼんやりと時間をやり過ごしていた。
そんなある日だった。講義が終わって、混み合う教室の出口でふと顔を上げたとき、彼女がいた。
光の差し込む窓辺で、ノートを閉じながらふっと笑ったその瞬間。周囲の喧騒が消えたように感じた。
松永晴海。
名前は、そのあと履修者名簿で知った。同じ学部、同じ専攻。けれど違うクラス。
それから、彼女の姿を探すのが僕の日課になった。
松永晴海は、まるで春の光そのものだった。
長い黒髪をまとめて、白いシャツにカーディガンというシンプルな服装。だけど、その佇まいが、誰よりも自然で、美しかった。
僕は彼女を知っていた。正確には、見ていただけだ。
同じ学部、同じ専攻だけれど、彼女の教室はいつも一つ向こうの棟で、講義が重なることは少なかった。たまたま選択科目が同じで、一緒になったこの講義が、僕にとってのささやかな幸運だった。
講義が終わると、彼女はすぐに席を立たない。ペンをゆっくりペンケースに戻し、ノートを丁寧に閉じる。その様子すら、どこか儀式のように感じられて、僕はその姿を毎回のように目で追っていた。
でも、それだけだった。
声をかけることなんてできない。そもそも、何を話せばいいのかもわからなかった。
そんなある日。僕は勇気を出して、彼女の学籍番号を検索して、学部の掲示板にあるメールアドレスを見つけた。今思えばずいぶん回りくどいやり方だったけれど、それが当時の僕にできる精一杯だった。
From: mizuno-natsuki@*
To: harumi.matsunaga@*
Subject: 今日の講義について
初めまして。同じ○○学部の水野といいます。
今日の××先生の講義で出ていたレポートの件で、少し質問があってメールしました。
よかったら、教えていただけると嬉しいです。
送信ボタンを押すとき、手が震えた。
そして、彼女から返信が来たのは、その日の夜だった。
From: harumi.matsunaga@*
Subject: Re: 今日の講義について
水野さん、はじめまして。
メールありがとうございます。レポートのことですが、私のメモが参考になるかわかりませんが、添付しておきますね。
また何かあれば気軽にどうぞ^^
優しい文章だった。飾らない、でも、どこかあたたかい。
僕は何度もその文面を読み返しては、顔を赤らめていた。
それから、ぽつりぽつりと、週に一度くらいの頻度でメールを交わすようになった。内容はほとんど講義や課題のこと。でも、彼女が少しずつ顔文字を使うようになったり、「今日は風が強いね」と季節の話を入れてくれるようになったりして、それだけで僕の心は浮かんだり沈んだりした。
だけど、現実の距離は縮まらない。
彼女は教室では相変わらず、誰かと話すでもなく、静かにノートをとって、静かに帰っていく。僕も声をかける勇気がなくて、遠くから見るだけだった。
「メールでは近いのに、現実では、こんなに遠いんだな」
そんな思いが胸をよぎるたび、少しだけ心が苦しくなった。
だけど、それでも――。
彼女の名前が、メールの受信トレイに現れるたびに、僕はどうしようもなく嬉しかった。
ある金曜日の夕方、いつものように講義が終わり、僕は帰り支度をしていた。
今日こそ、声をかけてみようか。そう思ったのは、彼女が提出物のことで送ってくれたメールに、さりげなく「今日の講義、少し難しかったですね」と書いてあったからだった。
ほんの一言。それでも、まるで僕に話しかけてくれたような気がして、胸が高鳴った。
講義室の出口で、晴海がカバンを肩にかけて歩き出す。その後ろ姿を見つけた瞬間、僕は一歩踏み出した。
でも、すぐに足が止まった。
――何て声をかければいい?
「こんにちは」? それとも「さっきのメールありがとう」?
頭の中でいろんな言葉が浮かんでは消え、気づけば彼女の姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。
夕暮れのキャンパスを一人で歩きながら、僕はため息をついた。
近くにいるのに、どうしてこんなにも遠いんだろう。
すぐそこにいるのに、どうして声が届かないんだろう。
スマートフォンを取り出すと、未送信のままのメールがひとつ残っていた。
講義のことでも課題のことでもない、ただの雑談。
「今日、少し寒かったね。桜、もう少し持ってくれるといいね。」
送信ボタンに指を置いたまま、僕はしばらくその画面を見つめていた。
ほんの些細な一言でいい。会話の糸口になればいい。そう思って、ようやく指を動かす。
ピロン。
送信完了の音が、小さく響いた。
その夜、彼女から返信が来ることはなかった。
でも不思議と、胸の中にはあたたかい余韻だけが残っていた。
春の風が、校舎の間を通り抜ける。
桜はまだ、少しだけ咲き残っていた。
第2章:メールの距離
それから僕たちのやり取りは、少しずつ変化していった。
講義のことだけではなく、季節のこと、趣味のこと、何気ない雑談が交じるようになっていった。
「最近、駅前のカフェに行ったんだけど、意外と落ち着けたよ」
「へえ、あそこって中そんなに広いんだ? 行ってみたいな」
たったそれだけのやり取りなのに、心が跳ねる。
スマホに彼女の名前が表示されるたびに、胸の奥がくすぐったくなって、返信内容を考えるだけで何度も文字を打ち直した。
たった一文を、何分もかけて考える自分に気づいて、苦笑した。
でも、やっぱり――直接、言葉を交わすことはなかった。
ある日、僕は大学の図書館で偶然、晴海を見かけた。
彼女は、窓際の席で静かに本を読んでいた。
春の光が彼女の横顔を照らしていて、その姿はまるで映画のワンシーンのようにきれいだった。
声をかけるチャンスだと思った。
けれど、またしても僕はその一歩を踏み出せなかった。
近づいて行って、名前を呼べばいい。
でも、どうしても体が動かなかった。声をかけて、もし迷惑そうな顔をされたら――そう思うと、胸がざわついてしまった。
僕はそのまま、少し離れた席に座って、彼女の背中をただ見つめることしかできなかった。
その日の夜。
「今日、図書館にいたよね?」
そんなふうにメールを送ってみようかと思った。けれど、指が止まる。
見かけただけなのに、そんなことを言って気持ち悪がられないだろうか。
結局、打ちかけた文を消して、こう送った。
「今日は良い天気だったね。明日の講義、また眠くなりそうだな笑」
数時間後、彼女から返ってきた返信。
「ほんとそれ。木曜の3限って、なんであんな眠いんだろう笑」
何でもない会話。
でもその「笑」が嬉しかった。
晴海は、メールの中ではよく笑う。
顔文字も絵文字もあまり使わないけど、「笑」の使い方が、どこか彼女らしかった。
メールの中での彼女は、少しずつ近づいてくるように感じた。
でも、それは画面の中の話でしかなくて――キャンパスで彼女を見かけても、やっぱり僕は、名前を呼ぶことができなかった。
まるで、二つの世界にいるようだった。
同じ大学、同じ学部、同じ空の下にいるのに。
メールでは隣にいるのに、現実では何メートルもの距離があるような気がして。
――近いのに、遠い。
それが、僕たちの“今”だった。
新学期が始まって、もう一ヶ月が過ぎていた。
大学生活にも慣れ、学内の景色も、少しずつ「日常」へと変わっていく。
だけど、彼女への気持ちだけは、最初に抱いたときのままだった。
いや、それ以上に、日に日に大きくなっていた。
5月のある昼休み、いつものように中庭のベンチで昼食を取っていると、ふと目に入ったのは、図書館の前に立っている晴海の姿だった。
誰かと話していた。見たことのない男の人。
先輩だろうか。ふたりとも穏やかに笑っていた。
胸の奥が、少しだけちくりとした。
僕には、あの距離が遠かった。
メールでは話せるのに。画面の中では、お互い笑い合えるのに。
でも、あの人と彼女は、ちゃんと目を見て話していた。声で、表情で、言葉を伝えていた。
僕にはできないこと。
その日の夜も、いつものように彼女からメールが来た。
「今日、また中庭で寝そうになった笑 風が気持ちよすぎる」
それに対して、僕はスマホを握りながら、何度も書いては消した。
「昼休みに誰かと話してたね。…彼氏?」
そんなこと、聞けるはずがない。
聞いたところで、何になるんだろう。
結局、返信はごく普通のものになった。
「気持ちいいよね。5月の風って、一番好きかも」
返事は数分後に返ってきた。
「それわかる!あの風、なんか安心する^^」
まるで、何も知らないふりをして会話を続けている自分が、どこか他人みたいに感じた。
その週末。僕は、初めての「会話」を決意した。
来週の講義で、終わったあとに声をかけよう。話す理由なんて何でもいい。提出物のことでも、ノートの確認でも、天気の話でも――。
とにかく、メールじゃなく、声で話したいと思った。
月曜日、講義が終わったあと。
彼女は、いつものようにカバンを持って立ち上がった。
僕は席を立ち、彼女の後ろを歩きながら、心の中で何度も彼女の名前を繰り返した。
――晴海、晴海、晴海。
でも、出口を抜けるその瞬間、またしても言葉は喉元で止まった。
彼女が振り返る前に、僕は立ち止まり、彼女の背中だけを見送った。
その夜、メールを打ちながら、自分が情けなくなった。
「今日、ちょっと話しかけようと思ってたんだ。でもできなかった笑」
思い切って、そのまま送った。
何かが変わるかもしれないと思ったから。
しばらくして、彼女からの返信が来た。
「…そっか。気づかなかった、ごめんね」
「ごめんね」の言葉に、なぜか少しだけ距離を感じた。
僕が伝えたかったのは、「話しかけようとした」という事実じゃない。
「話したかったんだ」という、ただそれだけの気持ちだった。
でもそれを、声にできる日は、まだ来ないままだった。
6月に入り、空気が少しずつ湿り気を帯びてきた。
気づけば梅雨の気配が近づいていて、傘を持ち歩く学生の姿もちらほら増えていた。
そんなある日の午後。
午後2限の講義が急遽休講になり、時間が空いた僕は図書館でレポートの下調べをすることにした。
人も少ない時間帯。静かな館内。
2階の閲覧スペースで資料をめくっていると、不意に小さな足音が聞こえた。
顔を上げると、そこにいたのは――
松永晴海だった。
僕と同じ列の棚に目を向けながら、彼女は手元のノートを確認していた。
それに気づかれないよう、視線を戻す。けれど心臓の鼓動だけが、やけに大きく感じられた。
チャンスだ。
そう思った。
今なら、声をかけても不自然じゃない。講義の話、課題の話、あるいは――「偶然だね」と笑ってみてもいい。
――今しかない。
僕はゆっくり立ち上がり、意を決して歩み寄った。
「……松永さん」
声が震えた。でも、彼女は気づいてくれた。
顔を上げ、少し驚いたように目を見開いて、それから笑った。
「あ、水野くん……だよね? メールの」
「あ、うん。……その、いつもありがとう」
「こちらこそ。……なんか、こうして話すの、変な感じだね」
思わず僕も笑っていた。
晴海の声は、思っていたよりもずっと柔らかくて、耳に心地よかった。
会話はぎこちなかったけれど、それでも、ちゃんと“現実”の言葉で繋がっていることが、ただただ嬉しかった。
図書館のテーブルで、僕たちは30分ほど一緒に資料を見ながら、レポートの話をした。
ときどき彼女が笑い、僕がそれに合わせて少しぎこちなく返す。それだけの時間だったのに、あっという間に過ぎていった。
「じゃあ、そろそろ戻るね」
立ち上がりながら、晴海がふと言った。
「……話せてよかった。やっぱり、メールだけじゃちょっと寂しいなって思ってたから」
その言葉に、心の奥がじんわりと熱くなった。
「……また、話そう。よかったら」
勇気を出してそう言うと、彼女は少し目を細めて、頷いた。
「うん。またね、水野くん」
そう言って、晴海は静かに歩き出した。
彼女の背中を見送りながら、今までとは少しだけ違う“距離”を、僕は確かに感じていた。
その夜。彼女から、たった一行のメールが届いた。
「今日、話せてよかったよ。ありがとう^^」
画面の文字が、いつもよりあたたかく感じられた。
そして僕は、ひとことだけ返信した。
「僕も。……また、話そうね」
第3章:遠ざかる背中
晴海と話してから、数日が経った。
僕たちは以前と同じようにメールを続けながら、たまにすれ違うと小さく挨拶を交わすようになっていた。
ほんの短い「おはよう」と「またね」。それでも、画面の中だけだった距離が、少しずつ現実にも反映されていくようで、僕の心は弾んでいた。
もっと、彼女のことを知りたい。
声で話すことが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
けれど、そんな気持ちとは裏腹に、ある違和感が、ふとした瞬間に顔を出すようになった。
ある日。
僕は、晴海が誰かと並んで歩く姿を見た。例の、図書館の前で話していた男性だった。
二人は落ち着いた雰囲気で歩きながら、何かを話していた。
晴海は普段と変わらぬ様子だったけれど、隣にいるその男の人の表情は、どこか親しげで――いや、もっと深い何かを感じさせるものだった。
僕は、その光景から目が離せなかった。
数日後、いつものように晴海にメールを送る。
「今週末、レポート一緒に進めようと思ってるんだけど、時間あったら少しだけでも話せるかな?」
その返信が来たのは、次の日の夜だった。
「ごめん、今週末はちょっと予定があって…。また時間できたらこっちから連絡するね」
文面は丁寧だった。だけど、どこか“距離”を感じた。
以前の彼女なら、「来週ならどう?」とか、「別の日はどうかな」と、代わりの提案をくれたはずだ。
僕は、その返信を何度も読み返した。
梅雨の空は重く、灰色の雲が何日も続いた。
僕の気持ちも、それに似ていた。
そんなある日、偶然、学生食堂の入り口で彼女と鉢合わせた。
「……あ、水野くん」
「あ、晴海……さん」
一瞬、目が合った。でも彼女は、どこかよそよそしい笑みを浮かべただけだった。
「……それじゃ、またね」
それだけを言って、彼女は去っていった。
ほんの数秒のすれ違い。それなのに、僕の胸に残ったのは、妙な喪失感だった。
まるで、背中にドアを閉められたような感覚。
その夜、僕は久しぶりに自分からメールを送らなかった。
それでも、スマホの画面を何度も確認してしまう。
期待してしまう。…でも通知は、ひとつも来なかった。
数日後、思い切って彼女の名前を検索し、SNSを開いた。
普段はほとんど投稿しない彼女だったけれど、珍しく画像付きの投稿があった。
そこには、例の男性と並んだ写真。
ふたりで街の夜景を見下ろす展望台の写真。小さく写るふたりの背中。
「久しぶりに、大切な人と」
そうキャプションが添えられていた。
……大切な人。
その言葉が胸に突き刺さる。
メールの距離が、また遠のいていくのを感じた。
僕の知らない彼女の時間。僕が踏み込めない、彼女の過去。
近づいたように思えた。けれど、それはきっと僕の勘違いだったのかもしれない。
画面の文字では見えなかったものが、今になってはっきりと、**“彼女の背中”**として現れてきた。
どうして、もっと早く聞けなかったんだろう。
どうして、もっと素直になれなかったんだろう。
雨の音が静かに、机の上で鳴り続けていた。
彼女との会話の履歴を、そっと閉じた。
第4章:その距離を、歩いた
梅雨の真ん中。空は灰色、空気は重たく、街もどこか塞ぎ込んでいるように見えた。
僕の心も、それに似ていた。
松永晴海の笑顔が、遠い場所にあるように感じられるようになって、もう何日が過ぎただろう。
例の写真を見て以来、僕は彼女にメールを送っていなかった。
彼女からも来ない。それはつまり、今の距離が、彼女にとって“ちょうどいい”ということなのかもしれなかった。
でも、そんなふうに納得しようとしても、心は納得してくれなかった。
週明け、講義が終わったあと。
彼女の姿を教室の後ろに見つけた。友達と二人、席を立つ準備をしている。何を話しているのかは聞こえなかったけれど、彼女の横顔は少し疲れているように見えた。
……話しかけよう。今度こそ。
僕は、無意識に歩き出していた。
「――晴海さん」
名前を呼んだ瞬間、彼女がこちらを向いた。
目が合う。その表情は、少し驚いていたけれど、すぐに優しい笑みに変わった。
「……久しぶり、だね。元気だった?」
「うん。……ちょっと、話せるかな?」
彼女は一瞬だけ戸惑うような間を置いて、それから頷いた。
「いいよ。ちょっとだけなら」
二人で中庭のベンチに並んで座った。
雨上がりの風が少しだけ涼しくて、地面にはまだ濡れた葉っぱが残っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、僕はゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「……あの写真、見た。SNSに載ってたやつ」
晴海は、わずかに目を見開いた。
「そっか。……見ちゃったんだね」
「彼……彼氏なの?」
自分の声が、少し震えているのがわかった。
でも、ちゃんと聞かなきゃいけない気がした。避け続けてはいけないと思った。
晴海はしばらく何も言わなかった。
そして小さく、肩を落としてから答えた。
「……違うよ。今は、もう。ただの友達」
「今は……?」
「……高校のときに付き合ってた人。春に別れた。でも……彼が、つらい時期で。少しだけ、話を聞いてたの。あの日も、そういう日だった」
僕は思わず、息をのんだ。
「なんで、何も言ってくれなかったの?」
「言おうとした。でも……何て言えばいいかわからなくて」
「僕だって……聞きたかったよ。本当のこと」
「……ごめんね」
その言葉が、苦しくて、でも少しだけ安心もさせた。
言葉にするのは、難しい。
でも、言葉にしなければ何も伝わらない。
だから僕は、目を逸らさずに言った。
「……晴海さんのことが、好きなんだ」
沈黙が降りた。
雨上がりの空が、ほんのわずかに明るくなる。
彼女はゆっくり、僕の方に視線を戻して言った。
「……ありがとう」
その声は優しかったけれど、次の言葉が怖かった。
「でも、今は……答えを出せない」
そう言って、彼女は少し寂しそうに笑った。
「ちゃんと気持ちは嬉しい。驚いたし、正直ちょっと戸惑ってる。でも、今の私は……自分のことで精一杯で、誰かにちゃんと向き合える状態じゃないんだ」
わかっていた。
そんな気がしていた。だけど、それでも。
「……待っても、いい?」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
彼女は、そっと頷いた。
「……うん。そのときが来たら、ちゃんと伝える」
言葉は届いた。でも、恋はまだ始まっていなかった。
それでも、僕は一歩を踏み出せた。初めて、“行動”という名前の一歩を。
その日の夜、晴海からメールが届いた。
「話してくれて、ありがとう。……私も、ちゃんと向き合いたいって思ってるよ」
返信はしばらくしなかった。
でも、画面を見つめながら、心が静かに落ち着いていくのを感じていた。
遠くに見えた背中が、少しだけこちらを向いた気がした。
梅雨の終わりが近づき、湿った空気の中に夏の気配が混じり始めていた。
大学のキャンパスはいつも通りの賑わいを取り戻し、僕たちの生活も少しずつ動き出していた。
あの日から、晴海とはたまに話すようになった。
でも、まだどこかぎこちない。友達とも恋人とも言い切れない、不思議な距離感。
そんなある日の昼休み。
中庭のベンチに座っていると、晴海が小さな声で話しかけてきた。
「ねぇ、水野くん」
「うん?」
「最近、楽しい?」
その問いに、僕は一瞬戸惑いながらも答えた。
「うん、君と話せるからかな。少しずつだけど、前みたいに笑えるようになってきたよ」
晴海は目を細めて、ほんの少しだけ笑った。
「よかった。そういうの、聞きたかった」
その日、僕たちは自然と隣に座り、話が途切れることなく続いた。
好きな音楽のこと、大学の授業のこと、時には何気ない日常の話。
初めて彼女の声が、自分の中で温かく響いた気がした。
「水野くんって、私のことどう思ってる?」
突然の問いに、僕はドキリとしたけれど、素直に答えた。
「好きだよ。でも、今は君のペースでいい。焦らずに」
晴海は安心したように微笑み、そして少しだけ顔を赤らめた。
「ありがとう。そう言ってもらえると、頑張れる」
季節は少しずつ変わっていくけれど、
変わらないのは彼女と僕の間にできた、そっと寄り添う場所。
まだはっきりと恋人同士とは言えないけれど、
「君が笑う場所」が、確かにここにあることを感じていた。
夏の陽射しが強くなり、キャンパスの緑も一層鮮やかに輝いていた。
その日も僕は、晴海と大学の中庭で待ち合わせをしていた。
「来てくれてありがとう、水野くん」
晴海はいつもより少しだけ緊張した様子で笑った。
僕も心臓が高鳴っていた。
「こちらこそ。今日は、話したいことがあって…」
僕は鞄から小さなノートを取り出した。
それは、メールのやりとりや、彼女との思い出を書き留めてきたものだった。
「僕はずっと、君が近くにいるのに遠く感じていた。
メールの文字の中でしか見えなかった君。
でも、今日、こうして隣で話している。
それでもまだ、君のすべてを知っているわけじゃない。」
晴海はじっと僕の目を見て、頷いた。
「私もね、ずっと不安だったの。
自分のことを話すのが怖くて。
だから遠くにいたの。でも、本当は近くにいたかった。」
僕はノートを開き、彼女に見せた。
そこには僕が書いた言葉や、彼女からのメールの一つ一つが丁寧に記されていた。
「“近く遠くにいる君へ”――このタイトルにはね、君がいつも僕のすぐそばにいるのに、心の中では遠くに感じていたこと。
でも、その距離は、僕が君をちゃんと知ろうとしていなかったから。
これからは、もっと近くに感じられるように、君のことを全部知りたいんだ。」
晴海の目に、涙が光った。
「私も、そう思ってた。
近くにいるのに遠く感じることがあるのは、きっとお互い様だね。」
そして、彼女は静かに言った。
「これからは、遠慮せずに話すね。悲しいことも、嬉しいことも全部。」
僕たちは初めて、本当の意味でお互いの心に触れ合った気がした。
あのもどかしい恋のはじまりは、
メールの画面の向こうにいた彼女を、遠くに感じていたこと。
でも今は違う。
君が近くにいて、同じ景色を見ている。
「近く遠くにいる君へ」――そんな想いが、僕たちを結びつけていた。
そして、夏の光の中で、僕たちは新しい一歩を踏み出した。
近く遠くにいる君へ いすず さら @aeonx
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