温かな憎悪と消えない傷

いすず さら

暖かい感情の行き先

講義が終わり、大学の正門を出たところで遠くから鈍い爆発音が聞こえた。

続いて、悲鳴も聞こえる。

金属が歪むような音が遅れて響く。

「……またか」

思わず口をついて出た言葉に、自分でも少し驚いた。

 最近、この街ではこういうことが多い。異能を持った人間が現れ、何かを壊し、誰かが止めに入って、そして後味の悪い結果だけが残る。

 人は力を持つと変わる。

正確には、自分の方が強いと思った瞬間に変わってしまう。

 校舎の方角を見つめながら僕は歩き出した。

 本当なら関わるべきじゃない。そう分かっているのに、足は自然とそちらへ向かっていた。

もう、感じ始めている。

胸の奥がじわりと重くなる。

誰かの恐怖。怒り。混乱。

それらが自分の感情のように流れ込んできて、境目が曖昧になっていく。

 これは僕の力じゃない。

僕の中にいる、別の誰かの力だ。

『……歩』

はっきりとした声ではない。

思考に重なる、微かな違和感。

五鈴彩良。僕の中にいる存在であり、この感覚の正体。

 感情を、感じ取ってしまう。

触れたくもない他人の心を、否応なく。

現場に近づくにつれて、感情の奔流は強くなった。

 倒れた学生たち。崩れた壁。

その中心に、三人の姿が見えた瞬間、僕は足を止めた。

ーー強い。

直感的に分かった。

でも、その気になれば僕一人でどうにかできる。

彩良の力を使えば、造作もない。

それなのに、体が動かない。

怖かったからじゃない。

相手が強いからでもない。

三人から流れ込んでくる感情が、あまりにもはっきりしていたからだ。

悲しみ。怒り。憎悪。

 そして、その奥に確かにある――

 誰かを大切に思っていた、暖かい感情。

「……無理だ」

 喉元まで言葉がせり上がってきて、結局、何も出なかった。

 この場に集まり始めた異能持ちの学生たちが、三人を取り囲む。

 正義と敵意が、はっきりとした形を持ち始める。

 でも、僕だけが分かっていた。

 この三人は、ただ壊すためにここにいるわけじゃない。

 それが分かってしまった時点で、僕はもう戦える側の人間ではなかった。

最初に声を荒げたのは、異能を持つ学生の一人だった。

「おい! 何やってるんだよ、ここは大学だぞ!」

正義感というより、焦りに近い叫びだった。

その声に呼応するように、周囲の空気が張りつめる。

敵意。警戒。恐怖。

 それらが一斉に立ち上がり、また僕の中へ流れ込んできた。

 三人のうち、中央に立っていた女性が一歩前に出る。

年は僕とそう変わらないように見えた。

その表情は静かで、だからこそ余計に冷たく感じられる。

「私たちは、あなたたちを殺すつもりはない」

淡々とした声だった。

 それが逆に、周囲の神経を逆撫でする。

「……でも」

女性は続ける。

「邪魔をするなら、殺す」

一瞬、空気が凍りついた。

 それを破ったのは、別の学生の怒声だった。

「ふざけるな! 学校を壊して、生徒を倒しておいて何言ってやがる!」

感情が爆発する。正義が、形を持つ。

「俺たちがお前らを止める。必要なら――殺してでもだ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひりついた。

 三人から伝わってくる感情が、わずかに揺れる。

 ――違う。

 彼らは、今の言葉に怒っていない。悲しんでいる。

 その理由が分かってしまって、僕は唇を噛んだ。

 次の瞬間、衝突は起きた。

 異能がぶつかり合い、視界が歪む。

 衝撃音。悲鳴。

 僕は一歩も動けないまま、そのすべてを感じ取っていた。

強い。

三人は、圧倒的に。

それでも――殺さない。

必要以上の力を使わない。

数分もしないうちに、勝負は決した。

 倒れているのは、学生たちの方だった。

けれど、誰一人として命を奪われてはいない。

それが、何よりも雄弁だった。

僕の存在に、三人が気づいたのは、その直後だった。

視線が重なる。

逃げ場はない。

 三人のうち、背の高い男が一歩近づいてくる。

鋭い目つき。けれど、その奥にあるのは敵意ではない。

「……お前」

男は、少しだけ眉をひそめた。

「他の連中とは違うな」

心臓が跳ねる。

「敵意を感じない」

やっぱり、か。

僕が異質な存在であることは、最初から見抜かれていたらしい。

喉が渇く。

それでも、今度は逃げなかった。

「はい」

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

「僕は、あなたたちを悪い人たちだとは思っていません」

一瞬の沈黙。

男は、信じられないものを見るような目をした。

「……なぜだ」

正直に答えるしかなかった。

「あなたたちが、大切な誰かのためにここにいるって、分かるからです」

三人の感情が、大きく揺れた。

特に、女性のそれが。

「そして、その人は……もう、ここにはいない」

言葉にした瞬間、胸の奥が締めつけられる。

でも、止められなかった。

「悲しみと、怒りと、憎悪。その全部の根っこにある……暖かいもの。それが、あなたたちをここまで強くした」

誰も、何も言わない。

風の音だけが、壊れた校舎の間を抜けていく。

やがて、別の男が口を開いた。

「……お前も、邪魔をするのか」

答えは、決まっていなかった。

「分かりません」

それだけは、嘘じゃない。

「一つ、聞きたいことがあります」

視線をまっすぐ向ける。

「あなたたちは、目的を果たした後、どうするつもりですか」

短い沈黙のあと、女性が答えた。

「大人しく、罪を受け入れる」

その言葉に、彩良の気配がわずかに揺れた。

『……覚悟はある、ということね』

初めて、はっきりとした意思が伝わってくる。

それでも、僕は言った。

「止める理由はありません。でも……こんなことをしてほしくない気持ちもあります」

一歩、前に出る。

「だから――やりましょうか」

自分でも、何を言っているのか分からなかった。

「僕に、止めさせないでください」

沈黙。

三人は、互いに視線を交わす。

本気でやるなら、負けない。

彩良の力を使えば。

それでも――

僕には、この人たちを倒せない。

その結論だけは、揺るがなかった。

空気が軋む。

直感的に、これは止めなければならないと分かった。

――来る。

男の一人が腕を振り上げた。

放たれた衝撃が、校舎の壁を抉る。

僕は一歩踏み出した。

彩良の力が、迷いなく流れ込んでくる。

視界が白く染まり、次の瞬間、衝撃は霧散していた。

壊れたはずの壁は、それ以上崩れない。

ほんの一瞬の応酬。

それだけで、三人は悟ったようだった。

「……やめよう」

女性がそう言い、男たちは動きを止めた。

 彩良の声が、低く響く。

『これ以上やれば、壊れるのはあなたよ』

誰も勝っていない。

誰も負けていない。

ただ、その場に沈黙だけが残った。

その沈黙を破ったのは、震える声だった。

「あ、あんたたち……誰だ」

 崩れた校舎の影から、一人の中年女性が姿を現す。

 白衣。教員だと、すぐに分かった。

「……武藤先生、ですよね」

女性が静かに言う。

「北川梓を、知っていますよね」

その名前を聞いた瞬間、武藤先生の顔色が変わった。

「ま、まさか……」

「ええ。私たちの、大切な人です」

 空気が、重く沈む。

「お願い……見逃して。知らなかったの。あの子が、あんな目に遭ってたなんて」

その言葉が、胸に刺さった。

――嘘だ。

そう断じるほど強くはない。

でも、逃げた言葉だということは分かる。

「日記がありました」

 女性は感情を抑えたまま、続ける。

「先生に相談したこと。勇気を出して話したこと。でも――」

 視線が武藤先生を射抜く。

「“同じ学部の仲間同士なんだから、仲良くね”

そう言って、終わらせた」

武藤先生は何も言えなかった。

 そのときだった。

「……はあ、いつまで隠れてるつもりだ」

 背の低い男が、瓦礫の向こうを睨む。

「いじめグループのリーダー。山松海人」

呼ばれた名前に、青年が現れる。

震える手。落ち着かない視線。

「す、すまなかった……もう何年も前のことだろ。今さら、なんで……」

「死んだんだよ」

女性の声が、鋭くなる。

「あなたが、殺した」

「……え?」

「あなたがまた、あの子の前に現れたから。

過去は終わったって顔で、何事もなかったように」

海人は、言葉を失っていた。

「どうしていじめたの?」

問いは、静かだった。

「梓が、何かした?

 そんなに死んでほしかった?」

「ち、違う! そんなつもりじゃ……」

「じゃあ、なんで?」

 答えは、出ない。

 僕には分かってしまった。

 彼は、何も考えていなかった。

 だから、口を開いた。

「何でもないよ」

 全員の視線が、僕に集まる。

「あなたはいじめてるとき、何も思ってなかった。ただ、流れで、遊びで」

海人の肩が、小さく震える。

「警察に期待してるなら、無駄だよ。止めたから」

「……っ!」

 男の一人が、ナイフを取り出した。

 そして、海人に差し出す。

「これで、俺を殺せ」

 空気が凍りつく。

「いじめっ子のままで、犯罪者になれ」

 海人は、泣きながら首を振った。

「できない……ごめん……」

「できるだろ」

 低い声。

「できたから、あいつは死んだ」

 沈黙。

 崩れるように、海人が膝をつく。

「……今になって、分かった。いじめなんて、最悪だ。ただ壊すだけで……何も残らない」

「今さらだ」

女性の声は、震えていなかった。

 僕は、その場を見つめながら思った。

いじめは、特別な悪意から生まれるわけじゃない。

考えないこと。見ないこと。

それだけで、人は誰かを壊せてしまう。

胸の奥が、焼けるように痛んだ。

 止めるべきだったのか。

 止めないべきだったのか。

それとも、最初から止められなかったのか。

答えは、どれも違う気がした。

僕は、何も裁いていない。

誰も許していない。

 ただ、ここに立って、感じていただけだ。

 ――それで、いいの?

自分に問いかけた瞬間、

内側から、はっきりとした意志が浮かび上がってきた。

『……いいわけないでしょう』

五鈴彩良の声だった。

これまでと違う。

曖昧な重なりではなく、確かな輪郭を持っている。

『あなたは、逃げてる』

言葉は鋭かった。

『裁かないことを選んだんじゃない。

裁く立場になるのが、怖かっただけ』

反論しようとして、できなかった。

怖かった。

力を使えば、誰かを壊してしまうと知っていたから。

『でもね』

彩良は続ける。

『感じるだけで、何もしないのも、暴力よ』

その言葉に、息が詰まった。

『あなたは、彼らの痛みを理解した。

それを、行動に変えなかった。

それは――彼らにとって、救いでも、絶望でもない』

じゃあ、どうすればよかったんだ。

心の中で叫んだ、その問いに、彩良は静かに答えた。

『前に出なさい』

 次の瞬間、世界が一歩、近づいた。

視界が澄み、雑音が消える。

感情の奔流が、一本の線になる。

僕は、三人の前に立っていた。

驚いたのは、僕自身だった。

彩良が――前に出ている。

完全に支配されたわけじゃない。

けれど、今の言葉は、彼女のものだった。

「あなたたちは、もう十分やった」

声は、震えていなかった。

「復讐も、後悔も、覚悟も。

これ以上ここにいても、何も変わらない」

三人の感情が、揺れる。

怒りでも、悲しみでもない。

 ――疲労。

「行きなさい」

それは命令ではなかった。

終わらせるための言葉だった。

しばらくの沈黙のあと、女性が一歩下がった。

「……あなたは、何者?」

その問いに、僕は答えなかった。

 答えたのは、彩良だった。

『彼は、壊せる力を持っている。

でも、それを選ばなかった』

三人は、それで十分だと理解したようだった。

「……ありがとう」

女性の声は、かすれていた。

彼女たちは、背を向ける。

振り返らずに、歩き出す。

その背中から流れ込んでくる感情は、

悲しみと、諦めと――

それでも、確かに残っている暖かさだった。

 やがて、三人の姿は瓦礫の向こうに消えた。

静寂が戻る。

僕は、その場に立ち尽くしたまま、息を吐いた。

『……これでよかったの?』

小さく、彩良が尋ねる。

答えは、まだ出なかった。

でも、一つだけ分かっている。

見なかったことには、しなかった。

それだけは、確かだった。

三人が去ったあとも、誰もすぐには動けなかった。

 瓦礫の間を吹き抜ける風の音だけが、現実を繋ぎ止めている。

武藤先生は、崩れた壁の前に立ち尽くしていた。

先ほどまでの取り乱した様子はなく、ただ、年相応の疲れが滲んでいる。

「……私が、逃げたんだ」

独り言のように呟く。

「問題にしたくなかった。波風を立てたくなかった。

それが、あの子を一人にした」

誰も、慰めなかった。

でも、責める声もなかった。

先生は深く頭を下げ、ゆっくりとその場を去っていった。

その背中は、小さく見えた。

山松海人は、まだ座り込んでいた。

ナイフは、彼の足元に落ちたままだ。

「……警察、行く」

かすれた声だった。

「逃げたくない。

もう……何も考えずに生きるのは、やめたい」

それが贖罪になるかどうかなんて、分からない。

でも、逃げ続けるよりは、前に進んでいるように見えた。

海人は、誰とも目を合わせず、歩き出す。

背筋は、ひどく歪んでいた。

正しい結末なんて、どこにもない。

ただ、それぞれが、自分の重さを背負って進むしかない。

 現場には、僕だけが残った。

倒れた学生たちは、救急車で運ばれていった。

割れたガラスも、壊れた壁も、やがて修復されるだろう。

でも、ここで感じた感情は、元には戻らない。

『……後悔してる?』

彩良の声が、静かに響く。

「してる」

即答だった。

「止められたかもしれない。

もっと早く、違う形があったかもしれない」

『それでも』

彩良は、少しだけ間を置く。

『あなたは、見なかったことにしなかった』

それは、慰めでも、正当化でもなかった。

ただの事実だった。

僕は、空を見上げる。

夕焼けが、崩れた校舎を赤く染めている。

暖かい色なのに、どこか痛い。

 『……あなたは、優しすぎる』

彩良の声は、責めるようでも、慰めるようでもなかった。

何も解決していない。

それだけは、はっきりしている。

それでも、感じてしまったものを抱えたまま立っていたことだけは、確かだった。

正しさより先に、感情がある世界で、僕はそれを捨てなかった。

深夜、テレビから流れる刑事ドラマの音が、静まり返った部屋に空虚に響いていた。

 画面の中では、刑事が犯人を追い詰めるよくあるクライマックスシーンが繰り広げられている。逃げ場を失った犯人が、絞り出すような声で叫んだ。

「……仕方なかったんだ。生きるためには、こうするしかなかったんだ!」

 その一言が、僕の奥底に眠っていた「誰かの記憶」を激しく呼び起こした。

​ 脳裏に、知らないはずの光景が広がる。

 記憶の中の男が、必死な形相で訴えていた。

「生きたい……ただそれだけだったんだ。殺そうなんて思ってなかった!」

 その訴えを、一人の女性が冷たく切り捨てる。

「他人の命を踏み台にしてまで?」

​ それは、五鈴彩良の記憶だった。

 同じ体に魂を共存させている代償か、あるいは彼女の異能の影響か。時折、こうして彼女の過去が僕の意識を侵食してくる。

​ 男はなおも食い下がった。

「生きたいのはみんな同じだろ? ただ生きていたい。それは誰しもが持つ欲だ! あんたにだって、あるはずだろ!」

 彩良は顔色一つ変えなかった。

「いいえ。私は生きたいから生きているのではないわ。死ねないから生きているの」

 その声は、深淵のように暗く、重い。

「だから本当なら、命のやり取りに口を挟むべきではないのだけれど……訴えてくるのよ。殺された人が。どうして自分は殺されなければならなかったのか。命は皆平等で大切なものなのに、なぜ奪えたのか。――あなたが生き続けるためには、この問いに答え、この人を成仏させる必要があるわ」

「そんなこと、できるわけないだろう!」

「ええ、分かっているみたいね。理不尽に殺された人が、納得するわけがない」

​ 彩良は淡々と、最低限の道を示した。

「一つ目、死ぬ。これが一番楽な選択ね。二つ目、人を殺した十字架を一生背負って生きていく。……並大抵のことではないわ。あなたは死者に謝り続け、罪に苛まれ、その呪縛から逃れることはできない。それでも生きたいと願うなら、それもいいでしょう」

​ 男は恐怖に顔を歪め、縋るように懇願した。

「――助けてくれ。なんとかできるだろ、あんたなら!」

 しかし、彩良は無慈悲に突き放す。

「できるけれど、嫌よ。これはあなたが行ったことの代償だもの」

​ 次の瞬間、男の目に狂気が宿った。強烈な、剥き出しの殺意。

「なら、あんたを殺して……忘れて生きてやる!」

 男が襲いかかる。だが、接触するよりも早く、男は見えない力によって地面に縛り付けられた。

「……一番愚かな選択をしたわね」

「くそ、離せ! なんだこれは!」

「無理よ。これは私の力ではないもの。言ったでしょう、これはあなたの呪縛だと。あなたは生きることを選んだ。一生逃れられないし、忘れることも許されない。この重みこそが、あなたが奪った命の答えよ」

​ 男は観念したように、力なく呟いた。

「……いつか、許される日は来るのか?」

「無理……とは言わないわ。実際、この霊はあの時、あなたを殺すことだってできたのに、そうしなかった。珍しいわね。復讐よりも、何かが上回ったのかしら……。許されるかどうかは、これからのあなた次第。でも、覚えておいて。あなたが人を殺した事実は消えない。あなたが行く先は、いつだって地獄よ」

​ 視界がふっと現代の自室に戻る。

 冷や汗が背中を伝っていた。

​『……また見たのね』

 今の、彩良の声だ。思考のすぐ傍に彼女の気配を感じる。

「……うん」

『どう思った?』

 問いかけに、僕は言葉を選んだ。

「人は、感情に溺れると取り返しがつかなくなるんだって、そう思ったよ」

『そうじゃないわ』

 彩良の言葉は、冷徹なまでに明確だった。

『歩。あなたは、私と同じなのよ。人の感情を感じ取れるなら、それをどう扱うかを私たちは常に選択しなければならない。たとえそれが、残酷な決断だったとしても』

​ 彩良の言葉は、鋭い刃のように僕の心に突き刺さった。

 逃げ場のない宣告。

 それは、僕の胸に生涯消えない傷を刻みつけた。

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