第36話

第三次練の会場は、まだ幕の上がらない劇場だった。


客席は闇に沈み、舞台だけが淡く照らされている。

そこに立て、と告げられただけ。

演目も、台詞も、相手もいない。


ただ――立つ。


それだけが試練だった。


最初に歩み出たのは稲葉だった。

軽い足取りで、まるで馴染みのステージへ向かうように中央へ立つ。


「やってるねぇ……」


独りごちるように笑い、深く息を吸う。


けれど次の瞬間、その肩がわずかに震えた。


光が強すぎた。

闇に慣れた目に、舞台の白は眩しすぎた。


ここに立てば、すべてが見られる。

声も、姿も、心の奥も。


忘れられることも、比べられることも、避けられない。


稲葉はゆっくりと目を閉じた。


「……俺さ」


笑おうとして、声がかすれる。


「主役になりたいって言ったけど」


一歩、後ろへ下がる。


「舞台に立つってことは、消える覚悟もいるんだよな」


さらに一歩。


「俺は……まだ、それが怖い」


最後の一歩で、舞台の光から外れる。


闇が身体を包んだ瞬間、ほっとしたように息を吐いた。


「今回はここまでにしとくわ。

お前らの“本気”は、ちゃんと見たいからさ」


軽く手を振り、稲葉はそのまま客席側の闇へ溶けていった。


舞台には、もう二人しか残っていない。


光は逃げない。

立つ者を選ばず、ただ照らす。


逃げるか。

立つか。


舞台は静かに待っていた。



稲葉の背が闇へ溶けきるまで、誰も動かなかった。


舞台の光は相変わらず白く、容赦なく、

まるで「次はお前だ」と名指しするように床を照らしている。


生駒が先に息を吐いた。

けれど、その奥には焦りがあった。


石田は答えず、舞台を見つめたままだった。

拳が、ゆっくりと握られていく。


「立てよ」


低い声が漏れる。


「ここまで来て、怖いからって引くのか?」


生駒は苦笑する。


「怖くないやつなんているのかよ。

俺だって心臓、さっきからうるさいくらいだ」


石田がようやく視線を向ける。


「だったら黙って立て。

お前は……光が似合う」


その言葉は褒めているようで、刺だった。


生駒の表情がわずかに曇る。


「それ、俺が“そう見えるだけ”って言いたいのか?」


石田は一歩、踏み出す。


「違うか?

お前は昔から誰かに見つけてもらえる。

呼ばれれば目を覚ます。

誘われれば手を伸ばす」


さらに一歩。


「僕は違う。

何度比べられても、“華”がないって言われても、

自分で立たなきゃ何も始まらなかった」


舞台の光が、石田の影を長く伸ばす。


「だから怖くないわけじゃない。

でも、ここで退いたら――また童子切の背中を見るだけになる」


その名が出た瞬間、空気が硬くなる。


生駒は少し困ったように笑った。


「……そっか。

お前、ほんとにあの人が嫌いなんだな」


石田の目が鋭くなる。


「嫌いじゃない。

憧れでもない。

――越える相手だ」


沈黙。


舞台は二人を照らし続ける。


生駒が、ぽつりと言った。


「俺さ」


一歩、光の中へ入る。


「俺自身なのに、答えてくれなんて変な感じだなぁって思ってた」


床板が小さく鳴る。


「でも今はわかる。

ここに立たなきゃ、何も始まらない」


生駒が振り返る。


「石田。

お前と並んで立ちたい。

逃げる気はないよ」


石田はわずかに笑う。


「なら、踏み込め。

僕はもう退かない」


二人が同時に舞台へ足を踏み入れる。


白い光が強くなる。

影が交わり、ひとつになる。


ここから本当に始まった。

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