第30話
稽古場の外廊下。
昼でも夜でもない、栄華館特有の薄紫の光が床を染めていた。
壁際に座り込んでいた岡山藤四郎は、指先をぎゅっと握りしめている。
小さな体が、今にも震え出しそうだった。
「……オーディション、受けなきゃ」
声はか細い。けれど必死だった。
「受けなかったら、僕は……きっと、ここにいなかったことになる。
誰にも覚えられないまま、舞台にも立てずに……」
“忘れられる”という言葉を、最後まで言えなかった。
言った瞬間、それが現実になる気がしたから。
その隣で、観世正宗はくるりと回る。
裾がひらりと舞い、鈴のような笑い声が廊下に跳ねた。
「だいじょーぶだいじょーぶ!
観世が出れば、ぜーったい目立つもんっ。
忘れられるとか、そんな地味な終わり方、似合わないでしょ?」
根拠はない。
でも、その明るさは確かに周囲の空気を少しだけ軽くした。
岡山藤四郎は、少しだけ息を吐く。
まだ怖い。でも、一人じゃないと思えた。
そこへ、のんびりした足音。
稲葉江が、柱にもたれながら二人を見下ろしていた。
目元にはいつもの余裕の笑み。
「未明ギトウ幕の再演ってさ。
神話をなぞるなら、主役は“二人”なんだよねぇ
紫と赤。理想と力。
だから再演も、二人が立たなきゃ意味がない」
楽しそうに、けれど確信めいた声。
「だったらさ。
俺は石田と組みたいかな。
真面目で、折れなくて、ちゃんと前を向くやつ。
ああいうの、舞台じゃ映えるんだよ」
指先で空をなぞるように語る。
その名を呼んだ瞬間、空気が変わった。
廊下の奥から、静かな足音。
乱れのない歩幅。
呼吸すら正確に制御されているような、無駄のない存在感。
石田正宗が現れる。
「勝手に決めるな」
声は低く、男らしい。
だが感情は乗せない。
ただ事実を切るように告げる。
「僕は“組みたい”から立つんじゃない。
未明ギトウ幕再演は、必要だから立つ。
それだけだ」
観世正宗が「うわ、委員長だ〜」と笑い、
稲葉江は「そういうとこ、好きなんだよねぇ」と肩をすくめる。
石田は二人を一瞥し、それから廊下のさらに奥を見る。
そこに、生駒光忠がいた。
柱の影に半分隠れ、けれど確かにここにいる。
胸に手を当てたまま、何かを探すような目をしている。
石田は歩み寄る。
「……生駒」
呼ばれて、生駒は少しだけ笑う。
「聞こえちゃった?」
「全部な」
「そっか」
生駒は穏やかに息を吐く。
「石田は、抜けるんだよね。
自分の刀」
「当然だ」
「すごいなぁ」
羨望でも嫉妬でもない。
ただ、純粋な感嘆。
その無垢さが、逆に石田を少しだけ苛立たせる。
「すごくない。
“できなきゃ立てない”だけだ」
生駒は胸に手を当て直す。
「俺は、まだ応えてもらえないんだ。
ここにいるはずなのに」
少し困ったように笑う。
「俺自身なのに、答えてくれなんて……やっぱり変な感じだなぁ」
岡山藤四郎が、息を呑む。
観世正宗が口を閉じる。
稲葉江の笑みも、ほんのわずかに薄くなる。
石田は、真っ直ぐに言った。
「変じゃない。
それが、お前の今の現実だ」
そして、低く告げる。
「だが、舞台は待たない。
抜けないままなら――お前は、立てない」
その言葉は残酷だった。
だが同時に、救いでもあった。
生駒は、静かに頷く。
「うん。
だから、抜くよ。
必ず」
薄紫の廊下で、
それぞれの理由と覚悟が交差する。
けれど。
ここに立つ全員が、
それぞれの理由で舞台を目指している。
忘れられたくない者。
輝きたい者。
並び立ちたい者。
そして――
自分自身を抜きたい者。
薄紫の光の中で、
歯車は、確かに回り始めていた。
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