第29話
稽古場には、まだ一振りの刀も存在しない。
ギトウ少年は普段、帯刀を許されていない。
彼らが刀を持つことを許されるのは、ただ一つ――
ギトウ幕、すなわち舞台本番の時間だけだ。
それ以外の時間、刀は“自分自身の奥”に沈んでいる。
柄も鞘も、鋼の重みさえも、外には存在しない。
必要な瞬間、己の魂の中心から引き抜く。
それがこの劇場でいう“抜刀”だった。
だから稽古場は、刃を持たぬ戦士たちの集う奇妙な場所になる。
振り付けをなぞり、型を覚え、間合いを測る。
けれど決して刀は現れない。
ここで許されるのは、抜かぬまま、抜く準備をすることだけ。
生駒は、その中央に立っていた。
胸の前に手を添え、静かに息を吸う。
そこに刀があると信じるように。
心臓の奥、さらに深い場所。
夢で見た“あの刃”が眠る場所。
――ギトウ幕になれば、きっと抜ける。
――そう信じている。けれど。
今日も、何も起こらない。
「……まだか」
呟きは穏やかで、苦しさを隠すように柔らかい。
生駒は無理に力を込めない。
ここで焦っても、刃は出てこないと知っているからだ。
だが、それを見ている者がいる。
石田は壁にもたれ、腕を組んでいた。
鋭い目は一度も逸れない。
稽古の最初から最後まで、生駒の“抜けない手”を見続けている。
「お前、まだ一度も自分の刀を抜いてないな」
言葉は短く、刃のようにまっすぐだ。
生駒は少し笑った。
「そうだね。…俺はまだ、自分を舞台に出せていないらしい」
「誤魔化すな」
石田は一歩、距離を詰める。
「抜刀は誤魔化せない。ギトウ幕になれば、嫌でも抜くことになる。そこで抜けなきゃ、お前は舞台に立てない。それだけだ」
冷たいほどの現実。
だが石田の声には、見捨てる色はない。
むしろ、引きずり出そうとしている。
生駒は目を伏せ、少し考えてから言う。
「夢を見たんだ」
「……は?」
「火の匂いがする場所で、俺は手を伸ばしていた。『一緒に日の当たる場所へ行こう』って。…その手を取った気がする。でも目が覚めたら、何も残ってなかった」
石田は沈黙する。
その夢の意味を、彼もどこかで理解している。
「その“誰か”が、お前の刀か」
「わからない。…でも、あの夢の続きを、舞台で見たいと思った」
穏やかな声。
優しい願い。
けれど、舞台は願いを叶える場所ではない。
“抜いた者だけが立てる戦場”だ。
石田は低く息を吐いた。
「なら抜け。心臓に手を突っ込んででも引きずり出せ。お前が主役を目指すなら、それくらいできなきゃ話にならない」
「ずいぶん手厳しいね」
「優しくしてほしいなら、お仲間の歌仙兼定のところにでも行け。僕は、お前が折れる前に叩くだけだ」
その言葉に、生駒は小さく笑う。
「君がそう言うなら…俺は、もう少しだけ頑張ってみるよ」
石田は視線を細める。
「“もう少し”じゃ足りない。ギトウ幕はすぐ来る。そこで抜けなければ、お前は永遠に稽古場の床を踏むだけの人形になる」
稽古場の天井灯が、二人の影を長く引き伸ばす。
刃はまだない。
けれど、確かにそこには、抜かれるべき刀の気配があった。
生駒は再び胸に手を当てる。
今度は優しくではなく、はっきりと。
生駒は再び胸に手を当てる。
今度は優しくではなく、はっきりと。
――ここにいるんだろう。
――なら、応えてくれ。
沈黙。
空気が張り詰める。
やがて、生駒は小さく息を漏らして笑った。
「俺自身なのに、答えてくれなんて…変な感じだなぁ」
その声は柔らかい。
だが、どこか震えている。
石田は目を細める。
「変じゃない。刀はお前だが、お前はまだ刀じゃない。それだけの話だ」
容赦のない言葉。
けれど、それは生駒の背を折るためではなく、立たせるための刃だった。
生駒は深く息を吸い、もう一度胸に手を差し入れるように構える。
「わかったよ。…次は必ず、抜く」
それは誓いだった。
誰にでもなく、
自分自身に向けた誓い。
石田は短く頷く。
まだ抜けない。
だが、生駒の目には確かに前より強い光が宿っていた。
石田はそれを見て、わずかに口角を上げる。
「その顔だ。…そのまま、次の幕まで持っていけ」
舞台のない稽古場で、
二人はまだ刃を持たぬまま、
すでに戦いを始めていた。
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