第4話

 舞台袖は、いつもより暗かった。


 照明が落とされたわけではない。

 音も、人の気配も、確かに残っている。

 それでも、生駒光忠には――何かが抜け落ちたように感じられた。


 さっきまで、ここにいたはずだ。

 呼吸のリズムも、視線の熱も、確かに感じていた。


「……?」


 足元に、違和感があった。


 舞台板の上、照明の境目に、ぽつりと置かれたもの。

 あまりに自然で、最初は小道具だと思った。


 生駒は、一歩近づく。


 それが、靴だとわかった瞬間、動けなくなった。


 児手柏包永の靴。

 舞台用に仕立てられた、彼専用のもの。


 軽やかで、少し気取っていて、

 どこか「主役であること」を前提にした靴。


 拾い上げようとして、指先が止まる。


 裂け目が、見えた。


 つま先から、縫い目に沿って走る、無理のかかった傷。

 舞台の熱に耐えきれなかったのか、

 それとも――思い出に引きずられたのか。


「……そうか」


 生駒は、小さく息を吐いた。


 これは事故じゃない。

 誰かに壊されたわけでもない。


 耐えられなくなったものが、壊れただけだ。


 靴を、そっと持ち上げる。


 思ったより、ずっと軽い。

 拍子抜けするほど、何も詰まっていない。


 ――いや、違う。


 詰まりすぎて、空っぽになったのだ。


 生駒の脳裏に、言葉にならない情景がよぎる。


 焼けた刃。

 触れられず、名前も呼ばれず、

 「価値」を失ったまま、置かれていた時間。


 履物は、地面と繋がるためのものだ。

 それを失うということは――

 立つ場所を、信じられなくなったということ。


「……今の君は」


 生駒は、靴を見つめたまま、呟く。


「舞台に立てない、ってことか」


 同情ではない。

 叱責でもない。


 ただの、受け止めだ。


 主演をやれ、なんて言えない。

 代役を立てろ、とも言えない。


 この靴が壊れたという事実が、

 すべてを語っている。


 生駒は、靴を胸元に抱えた。


 抱えるしかなかった。

 今は、それ以上のことができない。


「……迎えに行くよ」


 声は、驚くほど静かだった。


 舞台へ連れ戻すためじゃない。

 無理に立たせるためでもない。


 立てない時間を、一緒に歩くために。


 裸足のまま、逃げていった刀を。

 光の外に行ってしまった少年を。


 生駒は、舞台の奥――

 照明の届かない方へと、歩き出す。


 それだけで、今は十分だった。

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