第1章2節

「王女の顔、ねぇ……何なんだろう」


 眠い目をこすり、洗面鉢に水を注ぐ。毎日のことだが、覚悟が必要だった。  手ですくった水は、凍りつくように冷たい。キン、と肌が鳴る感覚に、胸まで緊張が走る。  鏡の前で前髪を上げ、濡れた顔をタオルで拭う。金色の髪は淡く輝き、紫の瞳は意志を取り戻している。


「うん……今日も大丈夫」


 誰に見せるわけでもないが、自分を確かめるこの時間は好きだった。  鏡の中の自分に頷いた直後、ノックと共にドアが開いた。


「おはようございます、お嬢様」


 銀髪を結い上げたリディアだ。黒の制服姿は今日も完璧で、一分の隙もない。


「おはよう、リディア」 「遅くなり申し訳ありません。着替えの準備は整っております」


 私はされるがままに身を委ねるが、差し出された服を見て眉を寄せた。


「うーん……ねぇ、今日の服、ちょっとおとなしすぎるかも。どう見ても子どもっぽいわ、これ」 「清楚でよくお似合いですよ。この落ち着いた色合いが、周囲に流されないお嬢様の賢明さを最大限に引き立てます」


 リディアは完璧な微笑みで即答した。真紅の瞳の奥に、ごくわずかな疲労の色を隠して。


「……リディア、そういう言い回しはやめてよ」


 拗ねた気持ちが爆発し、思わず声が大きくなった。リディアは非を認めず、ただ優雅に微笑んでいる。その笑顔に、私は急にバツが悪くなる。リディアが折れないことを知っている。


「もう!……わかってるわよ。ごめんなさい」


 思わず笑いがこぼれ、肩の力が抜けた。


「じゃあ、下に降りましょうか」


 部屋を出る前に、姿見の前でくるりと一周する。――まぁ、この控えめさが、私の今の立場にはちょうどいいのかもしれない。これはこれでアリかな。


 広間に柔らかな声が響く。


「おはよう、アリサ」


 薄手のショールを肩にかけ、母が微笑んでいる。


「母上……今日は調子、どう?」 「うん、ぼちぼちよ。アリサに会えれば元気が出るわ」


 嘘だ。無理して笑っているのが痛いほど分かる。  私は何も言わず、母の向かいに腰を下ろした。焼きたてのパンと温かいミルク。リディアの配膳は静かで、カチャリという食器の音だけが響く。


 食事が終わる頃、母はお気に入りのマグカップを手に取った。


「アリサも飲む? 紅茶」 「ううん、遠慮しとく。これからリディアと城下町まで買い出しに行ってくるから」


 私は立ち上がり、椅子を戻した。


「明日は鉱山視察があるの。先生に道具を揃えるよう頼まれちゃって」


 母はくすりと笑う。


「先生って、あのお髭が爽やかな?」 「爽やか? 茶化さないでよ。あの髭は道具の扱いにはすごく厳しいんだから」


 母の軽口に苦笑いで返し、私は小さな鞄を手に取る。


「じゃあ、行ってきます」


 母はマグカップをそっと置く。


「……うん。気をつけてね。頑張って」


 母の温かい眼差しを背中に感じながら、私は広間を後にした。


 邸宅の玄関先に用意された馬車に乗り込むと、リディアが手際よくドアを閉めた。石畳を叩く蹄の音が、規則正しく車内に響き始める。  私は窓のカーテンを少しだけ開き、流れる風景を眺めていた。


 窓の外では、王国の兵士たちが帝国の兵に道を譲り、顔を伏せて通り過ぎていく。

 かつての誇り高い騎士たちの姿はどこにもない。


 門を抜けると、街の至る所にあの白銀の腕章を巻いた男たちが立っていた。

 彼らは互いに言葉を交わすこともなく、同じ距離、同じ姿勢で通りを監視している。

 通行人と視線が重なっても、瞬きを返す者はいなかった。


「……リディア。あの腕章、何? どうして王都の中に帝国の兵士がいるの?」


 私の問いに、向かいの席に座るリディアの眉が、一瞬だけ鋭く寄せられた。

 カーテンの隙間から外を射抜くその瞳は、一国の姫を支える侍女というより、

 獲物の気配を測る鷹のそれに近い。


「……『治安維持のための協力員』。それが表向きの名目ですわ。

 お嬢様、あまりジロジロと見てはいけません。今は――風が冷たい時期ですから」


 返答は完璧だった。

 けれど、彼女が握る買い物籠の手元は白く、微かに震えている。

 警戒なのか、それとも、私に見せてはいけない何かを押し殺しているのか。


「風が冷たい……って。もう春は近いはずでしょう?」


 私が重ねて問うと、リディアは何も答えず、

 ただ静かに窓のカーテンを引き寄せた。

 外の光が、ぴたりと遮られる。


「季節の話ではありませんわ、お嬢様。

 ……今のこの国には、外から入り込む冷気が多すぎるのです」


 遮られた視界の向こう、

 掲示板には王家の布告が貼られていた。

 その上から、帝国の言語で書かれた新たな法案が、

 無造作に、しかし確実に重ねられている。


 馬車が石畳を踏むたび、

 その揺れが、いつもより重く感じられた。


 日常の一日が、動き出す。

 けれどその朝、胸の奥に残ったのは、

 言葉にならない違和感だった。


 まるで――

 何か大切なものが、気づかぬうちに零れ落ちていく音を、

 聞いてしまったような。

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