第1章1節

あの夜から、世界はゆっくりと、しかし確実に壊れ始めた。  だが物語は、そのずっと前――まだ世界が静かに息づき、すべてが穏やかに守られていた頃に遡る。  アリサの幼い日々、静かな王宮の一夜から。


 ――世界がまだ、偽りの秩序に包まれていた頃。


 その夜、王宮は深い静けさに沈んでいた。  嵐が息を潜める直前のように、張りつめた空気。月光が磨かれた床を淡く照らし、暖炉の赤い炎が揺れ、広間に影を縫う。


 父王は薪をくべ、火がぱちりと弾けた。  昼の政務で見せる険しさとは異なる、穏やかな眼差しだった。  しかし、その横顔には、わずかな疲労の影が落ちていた。


「アリサ……。よく来たな。王宮の暮らしにも、少しずつ慣れてきたようだ」


 胸がひどく疼く。  ――慣れてなど、いない。


「……はい、父上」


 小さくうなずく。だが胸の奥は、昼間の痛みがまだ残っていた。  側妃の娘という立場。用意されない席。侍女たちの、わざとらしい嘲笑。  それが、私の世界のすべてだった。


「父上……私は、本当に“王女”として振る舞えているのでしょうか」


 自分でも驚くほど弱い声だった。父はゆっくり立ち上がり、私の肩に手を置く。その温もりが、痛みに触れる。


「振る舞いとは、外見でも作法でもない。心の在り方だ。心こそが、お前を王女たらしめる」


 父の声は、炎の光より柔らかく、広間を満たした。


「アリサ、我が家に伝わる『神と少女』の話を知っているか?」


 父の問いに、私は小さく首を横に振った。


「数百年前、ある少女が神より授かった言葉だ。――『民の誇りを守りなさい』とな。誇りとは、他人へ示すための飾りではない。心の奥で自分を支える、静かな光だ」


「光……」


「アリサ。迷う日が必ず来る。そのときは、この言葉を思い出しなさい。誇りを失わず、自分の価値を信じること。それが、クレドの血を継ぐ者の証だ」


 父の指先がは暖炉の灰よりも白く乾いていた。  その言葉が、祈りというよりは、遺言のように聞こえた理由を――当時の私はまだ知らない。


「……はい、父上。私もいつか……民の誇りを守れる人になります」


 父は穏やかに微笑み、広間の影へと消えた。  その背中には、王としての責務と、拭いきれぬ疲労が滲んでいる。


 炎がゆらめく。  私はその温かさに包まれたまま、静かに瞳を閉じた。


 ――夢だった。  だが、あれはただの懐古ではなかった。


 目を開けると、朝の光が薄く差し込んでいた。  枕に顔を埋める。


「……どうして今になって、あんな夢を……」


 あの夜の温度が、まだ胸の奥に残っている。  まるで、これから失われるすべてのものを、繋ぎ止めておけと命じられたかのように。


 窓の外。  静かな光が、微かに揺れた気がした。

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