俺と俺と
脳内に走馬灯が流れる。
――あの日。
トラック運転手だった私…いや、俺は、あの事件を引き起こすその日まで、毎日、毎時間、いや毎秒のように時間に追われ続けていた。
法定速度を超えて走らなければ、到底指定時間内にたどり着けない目的地。
物流を滞らせないためという名目のもと、休憩時間の切り詰めや車中泊はいつしか「当たり前」になり、疑問を抱く余地すら奪われていった。
それは仕事というより、消耗を前提とした装置の一部でしかなく、まさに劣悪と呼ぶほかない労働環境だった。
キャパシティを超えた業務が生む重圧に押し潰され、眠れない夜が幾晩も続いた。
二十歳の器をもってしても、精神は擦り切れ、肉体には鉛のような疲労が蓄積していく。
それでも止まることは許されなかった。
そして、あの日。
早朝だというのに、分厚い雲が空を覆い、太陽の姿を完全に隠していた。
世界は夜の延長のように薄暗く、色彩を失っている。
前照灯を点け、俺はただ前へ前へとハンドルを握っていた。
まるで魂が抜け落ちた殻のような状態で走行していた。
――ドンッ。
鈍く響く衝撃音。
その瞬間、俺ははっと我に返った。
フロントガラスは蜘蛛の巣のようにひび割れ、べったりと赤く染まっている。
割れたガラスの向こうで、黄色と水色のパラソルが空高く舞い上がっていた。
反射的に右足を左へ滑らせ、ブレーキペダルを力任せに踏み抜く。
甲高い制動音が響き、ようやく車体が完全に停止する。
だが、その時にはもう、取り返しのつかない段階に踏み込んでいた。
はねてしまった者がどうなっているのかなど、確かめるまでもない。
窓越しに見える血だまりが、起きてしまったすべてを物語っていた。
警察……いや、救急車が先か。
震える手で携帯を取り出す。
だが、その指が画面に触れる寸前、内側から声が囁いた。
――夢を、あきらめるのか?
指が、ぴたりと止まる。
俺には夢があった。
人に打ち明ければ、引かれるか、笑われるか、そのどちらかに違いない夢だ。
俺は、“女”という性に、強い憧れを抱いていた。
以前、雑誌で目にした「女装系男子」という特集に、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「男は筋肉で、渋く、かっこよく、そしてダンディであるべきだ」
そんな、疑うことすら許されなかった思想は、硬質な音を立てて崩れ去った。
俺も“かわいい”と言われてみたい。
そんな、どうしようもなく幼稚で、しかし切実な承認欲求が芽生えてしまったのだ。
整形。
美容エステ。
化粧品。
どれも莫大な金が必要だった。
だからこそ、寿命を削るような思いで働き続けてきた。
時間に追われ、身体を壊し、心を摩耗させながら、それでも夢のために耐えてきた。
それなのに。
たった一度のミスで、すべてが儚い幻想として散ろうとしている。
捕まれば、膨大な罰金と長期にわたる禁固刑。
必死に貯めてきた金も、人生で最も短く、最も価値のある若さも、すべて水泡に帰す。
そんな結末を、果たして俺は受け入れられるのか。
……だったら。
俺はドアロックを外し、外へと出た。
鼻腔を刺す鉄錆のような濃い金属臭に、思わず顔をしかめる。
だが構わず、周囲を見渡した。
早朝という時間帯。
そして、過疎地域という偶然。
奇跡的に、まだ誰もこの現場を目撃していない。
今しかない。
一瞬だけ、血だまりのある方へ視線をやる。
赤く染まった小さな身体が二つ、無造作に転がっている。
その手前に倒れた少女らしき顔は、恨めしそうにこちらを見据えたまま、
目、口、鼻から、絶え間なく赤い液体を吐き出し続けていた。
俺は目を逸らし、逃げるように再びトラックへ乗り込んだ。
そして、アクセルペダルを思いきり、踏み込んだ。
「そいつは、今も逃走し続けている」
男は含みを持たせた声でそう囁くと、耳元からゆっくりと離れていった。
力が抜け、視線が自然と下へ落ちる。腹部には、鋭利なものが突き刺さったままだった。
そのまま、私は膝から崩れ落ちた。
膝の布がしっとりと濡れる。
それを眺めながら、男はけたけたと笑った。
「よかったなあ。あの時、最善の選択をしたからこそ、理想の姿になれたじゃねえか」
……私。
いや、“俺”は、女の素質というものが欠片ほどもなかったのだろう。
誰が見ても男と答えるこの顔、体つきでは、俺の欲求は到底満たせなかった。
だから、整形に手を伸ばした。
受付から施術に至るまで、俺は終始怯えていた。
この顔を見て、何かを勘づかれるのではないか。
名前や過去を辿られるのではないか。
だが、それは杞憂だった。
この世界には、俺と似たような顔をした人間が、思っていた以上に溢れている。
誰一人、疑うことはなかった。
そして俺は、新しく、美しい顔を手に入れた。
ダウンタイムが明け、恐る恐る鏡を覗き込んだあの瞬間。
胸の奥が震え、息を呑んだ。
そこに映っていたのは、かつての俺ではなかった。
あの細く小さい目も、歪な輪郭も、男のゴツゴツした骨格も、どこにも存在しない。
“俺”の面影は、完全に消えていた。
そのとき、俺は決意したのだ。
過去の“俺”を、この世界から抹消する。
そして、新しい“私”として生きていくことを。
「過去の俺を消し去るって、お前が決めたもんなあ」
降りしきる雨の中、男は倒れ伏す私を見下ろし、嘲るように言い放つ。
その声には、勝者の余裕と、どこか歪んだ慈しみが混じっていた。
「だから表から抹消された俺は、大切な“私”のために裏方に徹したわけさ」
言葉の意味が飲み込めず、思考が鈍く濁る。
だが、男は俺の困惑など最初から見透かしていたかのように、愉快そうに続けた。
「お前はこの精神世界の危険因子なんだよ。毎日生まれる純粋無垢なお前は、いずれ“正しい審判”に気づいてしまう。
だから、その前に排除する。それが俺の役割ってわけだ」
……ああ。
喉の奥から、乾いた息が漏れる。
完全に消し去ったつもりでいた本性は、裏側の世界で生き延び、こうして暗躍し続けていたのか。
血に染まった手を洗うこともなく、さらに赤を重ねながら。
「このお前でざっと二千五百弱。
いい加減うんざりするくらいだが、これも愛おしい“私”のためだもんなあ」
数字として切り捨てられた存在の重みが、胸に突き刺さる。
私は俯いたまま、微動だにしなかった。
それを終わりの合図と受け取ったのだろう。
男は踵を返し、吐き捨てるように最後の言葉を落とす。
「じゃあな、“今日の私”。永遠に、おやすみ」
低く告げると、男は背を向け、雨の中を歩き出した。
その隙を、私は逃さなかった。
次の瞬間。
男の背中に、冷たい感触が吸い込まれるように突き立つ。
鋭利な刃物が、骨と肉を裂き、深々と沈み込んだのだ。
男は抵抗する間もなく、雨に濡れた地面へと倒れ伏した。
血と水をはね上げながら転がったその横顔には、嘲りも余裕もなく、ただ理解を拒むような表情だけが貼りついている。
「な、なん、で…」
問いに返答せず、私は刃物を引き抜いた。
そして、今度は心臓のあたりへ思いきり、突き立てた。
何度も、何度も、何度も。
雨の音と肉を切り裂く音が、黒の世界に響いていた。
間もなくして、男はピクリとも動かなくなった。
「…ごめん。ずっと、汚れ役を押しつけて。…本当は、守ってくれてたんだよね。でも、もう、いいんだ。…今までありがとう」
私は懐に手を忍ばせる。
取り出したのは、私を守ってくれたもの。
衝撃で砕けてしまったロケットペンダントだった。
一枚の色あせた写真の中で、名も知らない少女と少年、そしてその両親が笑う。
一つの家族の思い出。
「……おい、大丈夫か」
ふと、私を心配する声が聞こえ、ゆっくりと瞼を開ける。
視界には、ボーイフレンドの悠太が心配そうに顔をのぞかせていた。
「あ……あ、悠太……」
「いいから。これで涙を拭けよ」
そう言いながら、悠太は花柄のハンカチをそっと手渡す。
「なあ。君がこんなに泣くなんて初めてだからさ。悪い夢でも見た?」
彼の手が私の髪を優しく撫でる。
その心配が本心であることは、声のトーンから明らかだった。
「ありがとう。心配してくれて……俺、思い出したよ」
「……え、オレ?一人称バグった?」
「ううん。俺は俺だよ。それより、携帯を取ってくれないかい?」
「あ、うん。藪から棒に一体何なんだ?」
彼から携帯を受け取ると、電話を起動する。
一つ、大きく息を吸う。
それから、ボタンを三つ、押した。
<了>
110 楼きがり @takadono-Kigali
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます