私と俺と
黒い天から降りしきる雨は、身を守る術を失った私の身体を、容赦なく打ち付けていた。
赤く広がった海には、かつて確かに言葉を発していた“誰か”だったものが、二体、無造作に散乱している。
形を失い、意味を失い、それでもなお、そこに在ったという痕跡だけが、雨に洗われながら主張していた。
私は抵抗することもせず、ただ突っ立っていた。
叩きつける雨を避けることも、視線を逸らすこともせず、ただ呆然と、その光景を受け入れてしまっている。
ああ、やはり、おかしい。
目が。
脳が。
心が。
一斉に、強烈な違和感を訴えている。
誰もが、起きてしまった事象を拒むように目を伏せ、どうか悪夢であってくれと願ってしまう、あまりにも悲惨な情景だというのに。
私は、それを「初めて見るもの」として受け取っていなかった。
たまらなく、既視感があるのだ。
胸の奥が、ひどくざわつく。
知っている。
この光景を、私は知っている。
次第に鼓動は激しさを増し、喉を行き交う呼吸は荒く、短くなっていく。
ガチャリ。
降り注ぐ雨の音だけが支配していた空間に、ほんの小さな音が混じった。
それでも、耳はそれを聞き逃さなかった。
私は、はっとして音のした方へ目を向ける。
そこにあるのは、この惨状を生み出した巨大な物体。
その側面のドアが、開いていた。
間もなくして、にゅっと、黒い人影が現れる。
それは一切の躊躇もなく、赤い海へと足を踏み入れた。
ぴちゃ。
ぴちゃぴちゃ。
水と血が混ざり合った液体を踏みしめる、いやに生々しい音が響く。
人影は、迷いなくこちらへ向かってくる。
「俺は、誰でしょう」
地の底から這い上がってくるような、低く湿った声が問いかける。
その声に呼応するかのように、彼の歩調が徐々に速まっていった。
「そいつは、限界を優に超えるストレスを抱えたまま、ハンドルを握り――」
足元に散乱する肉片を、ためらいもなく踏み潰しながら、彼は一直線にこちらへ駈けてくる。
「そいつは、赤く光る信号を見落とし、最高速度で交差点へと進入し――」
信号機の赤い光が、彼の顔を不気味に照らし出した。
不自然につり上がった口角。その表情とは不釣り合いなほど、異様に見開かれた両の眼。
懐に添えられた手の中で、鋭利な何かが鈍い光を帯び、赤く反射している。
「そして、横断歩道を渡っていた幼い二人を轢き殺した」
彼との距離が、完全に消え失せた瞬間。
腹部に、鈍く重たい痛みが走った。
彼は私の耳元に顔を寄せ、囁くように告げる。
「――さて。俺は、誰でしょう」
…ああ。こんなにも冷酷で、救いの欠片すらない答え合わせが、果たして許されていいものなのか。
やはり私は、とうの昔に神の視界から外され、見放されていたのだろう。
喉は干上がり、息がうまく回らない。
それでも、私は精一杯絞り出した声で、はっきりと答えた。
「お前は、“私”だ」
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