私とわたしとぼくと
一切合切黒に飲み込まれた世界は、しかし、すぐに終わった。
間もなくして、緑に似た青い光が、黒の世界にぼうっと丸く浮かび上がる。
高さ5、6メートルほどの柱の上部に取り付けられたそれは、横に長い丸型の信号機だった。
ぼんやりとした青い光に照らされた足元の先には、太い白線が等間隔に敷かれている。
その先では、直立した人型のシルエットが赤く光っていた。
ここは紛れもなく、交差点を象った空間だった。
先ほどの少年の姿は見当たらない。
煙に巻かれたかのように、静かに、そして跡形もなく消え去っていた。
やがて、青の世界は黄の世界へと切り替わり、間もなくして赤の世界へと塗り替えられる。
それに連動するように、直立していた人型のシルエットが、青い光とともに歩行を示す形へと変わった。
渡れ。
そう命じられている気がした。
だが、私は一歩を踏み出せずにいた。
胸に手を当てる。
鼓動が、はっきりとわかるほど大きくなっていく。
心臓が、危険を告げる警報のように脈打っていた。
私はこの交差点に見覚えなどない。
それなのに、この光景だけは、どうしようもなく知っている気がする。
交差点。
信号機。
横断歩道。
日常に溶け込みすぎたそれらが、今は異様なほど生々しく、胸の奥をざわつかせる。
ここで、何かが起きた。
根拠などない。
それでも、この胸騒ぎの正体がこの先にあるのだと、私は確信していた。
黄色い傘を握り直し、歯を食いしばる。
勇気を振り絞り、震える足を前へと動かした。
ザーザーと降りしきる雨が、ビニールの表面を容赦なく叩きつける。
私は小さな歩幅で、白線を一本、また一本と踏み越えていく。
それでも人型のシルエットは変わらず歩行を促し続け、その青い光は一回り、二回りと肥大していった。
越えるべき白線は、あと数本。
終点が、すぐそこまで迫った、そのときだった。
「わたしは誰でしょう」
かつて耳にした言葉が、雨音を切り裂いた。
その衝撃に、私は思わず立ち止まる。
傘を握る手が、制御不能なほど震え始めていた。
この声の主を、私は知っている。
穴という穴から赤い液体をこぼし、最後には身体が人と呼べなくなるまで崩壊した彼女。
恐る恐る、視線を上げる。
横断歩道の終点、その向こう岸に、あの白いワンピースの少女が立っていた。
目や口から血は溢れていない。身体も崩れていない。
それでも、全身が拒絶反応を起こすほどの強烈な違和感が、私を硬直させた。
「ぼくは誰でしょう」
今度は、背後から。
首が軋む音を立てるほど無理やり振り向くと、そこには水色のビニール傘を差した、あの少年がいた。
違う点が、一つだけある。
口が、あった。
横断歩道の中腹で凍りついた私に向かって、少女と少年は、ゆっくりと歩み寄ってくる。
ぴちゃ、ぴちゃ。
長靴の水をはける音が、両岸から響く。
「それは、大きな箱が取り付けられた車」
少女が言う。
「それは、物をいっぱい運べる大きな車」
少年が続ける。
その言葉が揃った瞬間、理解してしまった。
喉の奥が、ひくりと引き攣る。
二人は、ついに私の目の前に立った。
二十本の小さな指が伸びる。
少女は、傘を握る私の右手を。
少年は、何も持っていない、空の左手を。
ぎゅう、と力が込められる。
呼吸が乱れる。
視界が歪む。
「「さて――わたし/ぼくは、誰でしょう」」
答えてはいけない。
それだけは、はっきりと分かった。
この問いに答えた瞬間、何かが決定的に終わる。
ふと、二人の顔を見る。
小さな二人は、私の顔を覗き込んでいた。
その黒い瞳が、一瞬だけ潤んだ。
「……トラック……」
かすれた声が、勝手にこぼれ落ちる。
「それは……トラック……だね」
やっとの思いで言葉を吐き出した、その直後だった。
不意に、腹をかすめるような感触が走る。視線を落とすと、少女の細い手が私のパジャマの隙間に滑り込み、縫い付けるような仕草で何かを忍ばせていた。
少女と少年の視線がまっすぐにこちらを射抜く。
2人の口元がほんの少し緩んだように見えた。
その瞬間。
けたたましいエンジン音が、世界を引き裂いた。
同時に、視界を焼き潰すほどの白い光が、私を襲う。
そちらへ顔を向けたときには、もう遅かった。
光を纏った巨大な質量が、異常な速度で迫っていた。
雨を弾き、空気を歪め、存在そのものが暴力となって突進してくる。
あ。
そう思う間もなく。
私は、その物体と正面から衝突した。
ぐしゃっ。
湿り気を帯びた肉が弾けるような、耳を疑う破裂音。
衝撃で引き裂かれ、勢いよく投げ出される肉塊。
それらは容赦なく地面に叩きつけられ、潰れ、混ざり合い、やがて判別不能なひき肉へと化していく。
そうなるはずだった。
肩まで伸びた髪を打ち付ける水が、やけに冷たい。
ゆっくりと、恐る恐る目を開ける。
私は横断歩道の上に、立ったまま存在していた。
細い足は砕けていない。
貧相な身体も、痛みすらない。
歩行を示す人型のシルエットは、相変わらず青く光り続けている。
私は、生きていたのだ。
先ほどの衝撃は、幻だったのだろうか。
混乱したまま、私は巨大な質量が通過していった先、横断歩道の向こう側へと視線を向ける。
そこは、赤信号の光に照らされていた。
最初に目に入ったのは、かろうじて傘の形を保った、淡い黄色のビニールの塊。
次いで、その周囲に広がる、赤い水溜まり。
鼻腔を刺激する鉄のような金属臭が、それが光によって赤く見えているのではないことを、嫌というほど示していた。
雨に薄められ、道路一面へと広がるそれの中には、いくつもの肉の破片がぷかぷかと浮かんでいる。
手前に漂う肉片の一つは、白い歯が整然と並んだ、顎のように見えた。
視線をさらに奥へやる。
そこに、小さな“誰か”が二体、転がっていた。
水色の傘。
ピンクのワンピース。
それ以上、形容する言葉が見つからない。
それが、かつて言葉を発し、問いを投げかけてきた存在だったとは、信じたくなかった。
ザー……。
降りしきる水の群れは、赤信号の光に染め上げられ、まるで最初から赤い雨だったかのように、ぬめりを帯びて道路を叩く。
その音だけが、赤く染まった世界に冷たく響いていた。
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