第2話 涙と笑顔
恭子は玄関ドアを開けて、中に入った。壁の横のスイッチを押すと、廊下の明かりが点いた。右側にキッチン、正面に寝室が見えた。恭子はほっとしながら靴を脱いだ。今日もここに帰ってくることができた。一気に気が緩んで、恭子は制服が入ったトートバッグを床にドサッと置いた。
ここは恭子が一人暮らしをしている1Kのアパートだ。キッチンのシンクには、今朝の朝食に使った食器が洗われずに置かれている。コンロの横には、空の牛乳パックやペットボトル、調味料や食パンの袋などが乱雑に置かれていた。
なかなかハードな一日だった。午前中は河川の巡回、その後は昼食抜きで出動、熊と蛇を倒し、現場調査に立ち会って、山を下りて、報告を済ませて……空腹と疲れでボロボロになって退勤した。しかし、激辛カレーを沢山食べて、少し元気が回復していた。明日は休み、もうシャワーを浴びて寝るだけだ。洗い物も明日でいい。
その時玄関ドアを施錠する音が聞こえて、恭子は振り返った。竜児も靴を脱いで、黒のリュックを床に置いていた。
「何か飲む?」
外が蒸し暑くて、喉が渇いていた。恭子は冷蔵庫を開けながら竜児に問いかけた。しかし、返事が返ってこない。恭子は不思議に思って竜児を見た。
竜児がこちらに歩いてきた。腕が真っ直ぐ伸びてきて、体を引き寄せられた。恭子は竜児の腕の中に固く閉じ込められて、目を閉じた。
世界で一番心地よい場所だった。自分の家も、竜児の腕の中も。生きているだけで幸せだった。あの大きな熊を見て、今日が命日になるかもしれないと竜児が言っていたことを思い出した。恭子はそれが冗談だとは思っていなかった。自分だって、怖いという気持ちは持っている。だだ、普段は心の奥底に封印しているだけだ。今になって、やっとその封印が解けてきた。怖かった、熊も蛇も。
恭子と竜児は、少し離れて見つめった。次の瞬間、二人の唇は自然と重なっていた。
愛しさが溢れ出た。恐怖も疲れも緊張も、全てほどけて溶けていくような甘さだった。恭子は山で食べそこなったマシュマロのことを思い出した。
しばらくして、二人の唇が離れた。
「竜ちゃん……」
そっと呟いたとき、竜児がまたすぐ唇を塞いできた。
「ん……」
次々押し寄せる波を浴びるように、恭子は黙って全てを受け止めた。恭子は竜児の背中に腕を回して、Tシャツの生地をぎゅっと握り締めた。もう軽いキスではなくなっていた。
なぜだろう、危険な戦いを終えたあとはいつもこうして、止まらなくなる。恭子はぼんやりとそう思った。
やがて、ピーピーという電子音が鳴り出した。冷蔵庫の扉が開けっぱなしになっている。しかし、それでも竜児は恭子を捕らえて放そうとしない。恭子は体が熱くなるのを感じて、身を捩らせた。
「うっ……!」
竜児が突然うめき声を上げて、パッと離れたので、恭子は驚いた。
「え……?」
竜児は口元を押さえて、苦しそうに顔を歪めている。恭子は急に心配になった。気分が悪いのだろうか?
「どうしたの?」
「口の中が……痛い。辛い……」
「え……!?」
恭子はハッと思い出した。自分が14辛のカレーを食べたばかりだったことを。
恭子は慌てて冷蔵庫を開け、牛乳パックを取り出した。洗いかごに伏せてあったマグカップを手に取り、中に牛乳を注いて竜児に手渡した。竜児はそれを受け取るなり、マグカップを傾けてゴクゴクと飲んだ。恭子はそんな竜児を心配そうに見守った。
「ああ……」
冷蔵庫の音はもう止まっていた。マグカップを空にした竜児は、魂が抜けたような顔になっている。
「もう平気?」
「うん……」
竜児が力なく頷いた。
「ふふっ……ははっ……!」
恭子は可笑しくてたまらなくなって、思いっきり笑った。さっきの竜児の様子は、まるで毒でも飲まされたかのようだった。
「笑うなよ……!」
竜児がムッとした顔で言った。
「はは……ごめん」
笑い過ぎて、恭子の目には涙が滲んでいた。
「はぁ……」
笑いが落ち着いたところで、恭子は竜児からマグカップを受け取った。再び牛乳を注いで、今度は自分で飲んだ。
「これで大丈夫」
恭子はコンロの横に牛乳パックを置くと、今度は自分から軽いキスをした。竜児は可愛い。これを一度本人に言ったら怒ったので、もう言わないが、心の中ではよくそう思っていた。
唇が離れると、二人は見つめ合って微笑んだ。
「はぁ……さっきのでまた汗かいた」
竜児がTシャツの首元を引っ張りながら言った。
「うん、シャワー浴びようか」
恭子は牛乳パックを手に取って、冷蔵庫にしまうと、寝室に入った。寝室といっても、着替えも食事も何もかもこの部屋で済ませている。
シングルベッドが部屋の面積の多くを占めていた。夏用の掛け布団が捲られたところに、取り込んだ洗濯物が山になっていた。フローリングにラグが敷かれ、食事をするための小さなテーブルと、座布団が二つ置いてある。テレビボードの上には、リモコン、箱ティッシュ、ハサミやペンなどの文房具がごちゃごちゃと置かれていた。
恭子は洗濯物の山を掻き分けてバスタオルと着替えを探した。竜児はその様子を黙って見ている。恭子はふと気付いた。部屋が散らかっていることについて、最近竜児から何も言われなくなった。きっともう諦めたのだろう。静かになって良かったと思った。
「はい」
恭子は竜児の腕に着替えとバスタオルを押し付けた。
「ありがと……明日はどっか行く?」
「うーん、どうしよう」
恭子は首を傾げた。再び山を掻き分けて、今度は自分の着替えを探していた。
「もう朝起きたら決めようよ」
明日の気分で決めたかった。疲れが残っていたら、家でゴロゴロして過ごしたくなるかもしれないし、元気だったらどこかに遊びに行きたくなるかもしれない。
「そうだな、そうしようか」
竜児が気楽に言った。恭子は着替えを全て見つけると、一纏めにして腕に抱えた。二人は寝室を出て浴室に向かった。
明日の過ごし方なんて、何にも決まってなくても良い。どうせただ一緒に居たいだけなのだから。恭子は竜児の後ろ姿を見ながら、そう思った。
そこは緩やかな傾斜がついた、コンクリートの道だった。道の右手は小さな墓地になっている。灰色の塔のような墓石に囲まれて、小さな朱塗りの鐘楼が建っていた。左手には、青々とした田んぼや林が広がっている。晴天の夏の日で、空はどこまでも鮮やかだった。遠景の山々が青く霞んで見えている。
そんな坂道を、三人の若い男女が登ってきた。何も言葉を交わさず、横並びに歩いている。真ん中を歩く女性は恭子だ。丈が長い紺色のワンピース着て、手に花束を抱えている。恭子の右側を歩く竜児は、白いTシャツに黒のパンツだ。左側の小柄な女性は、肩まで伸ばした黒髪に明るい色のメッシュカラーを入れている。トップスもパンツもベルトも、全て黒で統一していた。肌の上にシルバーのネックレスが光っている。
三人は右手の墓地の中に入って行った。両側に墓石が立ち並ぶ通路を歩き、やがて一つの墓の前で足を止めた。
恭子がその墓石を見つめて、花束を抱える腕にぐっと力を込めた。眉が下がり、唇を固く結んでいる。恭子は晴天を仰いでしばらく動かなくなった。竜児も、もう一人の女性も、その墓石を静かに見つめた。今にも壊れそうなくらい、悲痛な面持ちで。
「あいつが……悲しむよ。こんな顔してたら」
女性がぽつりと呟いた。
「わかってるよ……」
恭子が空を見たまま応じた。竜児は何も言わない。ただ暗い目で墓石を見つめている。
片側の花立てには、すでに花が入っていた。花びらの色は鮮やかで、葉も瑞々しい。女性がもう片側の花立てを抜き取って、水を汲みに行った。恭子は竜児に肩を叩かれて、ようやく空を見るのを止めた。持っていた花束を地面に置いて、包装を解き始めた。
「恭子、お願い」
女性が差し出してきた線香の先に、恭子は指を近づけた。指先から出た炎が線香の先に移り、煙が出た。女性がしゃがみ込み、香炉の中に寝かせるようにして線香を供えた。恭子と竜児が背後で見守る中、彼女は手を合わせた。恭子は竜児が手にした線香に火を付けた。白い煙が、竜児の顔を縦に割るように、ゆらりと立ち上った。女性と交代で、竜児は線香を供えた。固く目を閉じ、苦しみに耐えるような表情で、長く手を合わせた。
最後は恭子だ。自分の線香に火を付けて、恭子はしゃがみ込んだ。目を閉じ、静かに手を合わせた。風が吹き、周囲の木々の梢が揺れた。恭子の前髪が、風に優しく撫でられたように動いた。恭子は目を開けた。その時、彼女の瞳から大粒の涙が零れた。恭子はいつまでも立ち上がることができない様子で、目の前の線香を見つめたまま涙を流し続けた。やがて、顔を膝に埋め、肩を震わせて嗚咽を漏らし始めた。
「恭子……」
女性が見かねた様子で恭子のそばにしゃがみ込み、背中をさすり始めた。しかし彼女自身も、静かに涙を流し始めた。
竜児はそんな二人から目を背けて歩き出した。拳を握り締め、痛みをこらえるような表情で、両側に墓石が立ち並ぶ通路を一人戻った。朱塗りの鐘楼の前に来ると、その石段にゆっくりと腰を下ろした。竜児は両手に顔を埋めて、動かなくなった。やがて、恭子と同じように小さく肩を震わせて、微かな嗚咽を漏らし始めた。
「結局今年も泣いちゃったね」
坂道を下る三人の表情は、先程より和らいでいた。もう墓からだいぶ離れていた。周囲に見えるのは、緑の田んぼや住宅ばかりだ。
「恭子が泣くから……あたしまで泣いちゃったじゃん」
「ごめん……」
「いや……謝んなくていいよ」
女性が恭子に微笑みかけた。
「ありがと……」
恭子も微笑んだ。
「竜児も泣いてた?」
女性が竜児の顔を下から覗き込んだ。
「当たり前だろ。あんな空気耐えられないって」
三人の笑顔が田舎道に並んだ。
「ねぇ、ご飯どうする?」
恭子が両側を歩く二人に尋ねた。
「また駅前で探すか」
女性が言った。
「あそこは? 良さそうなラーメン屋あったじゃん。去年二人に却下されて行けなかった所」
竜児が言った。
「あ~」
恭子と女性が同時に声を上げた。
「ま、良いよ。たまには竜児のリクエスト聞いてやっても」
「暑いのにラーメンなんて正直嫌だけど。今回は特別に良いよ」
「冷やし中華あるかもしれないだろ……! 絶対ある!」
三人は坂道を下り終えて、線路沿いを歩いていた。歩道と線路をガードレールが隔てている。この先は駅だ。三人は笑って、真っ直ぐ歩き続けた。
次の更新予定
2026年1月3日 21:00
炎の道 嵐の道 谷川 鹿 @KYOKO-TAKI
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