第二回:『レンズ越しの僕と、言えないままの「ありがとう」』

あの日以来、僕の日常には小さな「異變」が起き始めた。  お弁当のお礼だと言って、星野陽葵が休み時間のたびに僕の席へやってくるようになったのだ。


「秋山くん、おはよー! 今日のメインは何? 鮭? 鶏の照り焼き?」 「あ、えっと……今日は、生姜焼き……」


 クラスの視線が刺さる。透明人間でいたかった僕にとって、陽葵の明るさは眩しすぎて、時々どうしていいか分からなくなる。彼女と話していると、喉の奥が熱くなり、指先が微かに震える。それは火災の恐怖とは違う、もっと正体の分からない熱量だった。


 放課後。誰もいない教室で日誌を書いていると、不意に背後でシャッター音が響いた。


「――あ。」


 振り返ると、陽葵が一眼レフカメラを構えて立っていた。レンズが、僕の困惑した顔を真っ直ぐに捉えている。


「あはは、ごめん! 秋山くん、夕陽に溶けちゃいそうだったから、つい」 「……写真?」 「うん。私、写真部でしょ? 今度のコンクールのテーマが『日常の溫度』なんだけど、秋山くんを撮らせてほしいなって思って」


 僕は思わず首を振った。 「僕なんて……撮っても、つまらないよ。もっと、目立つ人の方が……」 「違うよ。目立つことが溫度じゃないもん。秋山くんが作るお弁当みたいに、静かだけど温かいものを撮りたいの」


 陽葵は僕の隣に座り、カメラの液晶画面を見せてくれた。そこには、夕暮れの色に染まった僕の横顔があった。自分でも見たことがないくらい、寂しくて、でもどこか必死に生きているような表情。


「秋山くんはさ、いつも何かを言いかけて、飲み込んでるよね」


 陽葵の言葉に、心臓が跳ねた。見透かされている。


「その『飲み込んだ言葉』、いつか私に聞かせてよ。……無理にとは言わないけどさ」


 彼女はいたずらっぽく笑って、カメラを鞄にしまった。  その時、校內放送が鳴り響いた。それは避難訓練の事前告知だったが、放送の冒頭に鳴る『ピンポーン』という高い音が、僕の脳裏にあの夜の警報音を呼び起こした。


 ――熱い。息が、できない。


 ガタガタと椅子が鳴る。僕は無意識に喉をかきむしり、呼吸を忘れた。


「秋山くん!? どうしたの、顔色が……!」


 陽葵が慌てて僕の肩を掴む。彼女の手の溫かさが伝わってきた瞬間、僕は弾かれたようにその手を振り払ってしまった。


「――っ、ごめん……!」


 絞り出した声は、ひどく掠れていた。僕は鞄を掴むと、逃げるように教室を飛び出した。  後ろで陽葵が僕の名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返る勇気なんて、どこにもなかった。


 家に戻ると、姉さんがキッチンで夕食を作っていた。換気扇の回る音、煮物の匂い。ここは安全だ。誰も僕をレンズで覗かないし、誰も僕の喉の奥にある秘密を暴こうとはしない。


「蓮、おかえり。どうしたの? そんなに急いで」 「……何でもない。ちょっと、走ってきただけ」


 嘘をつくのは、もう慣れっこだった。  僕は部屋に駆け込み、ベッドに倒れ込む。目を閉じると、陽葵のレンズに映った自分の顔が浮かんでくる。


 あんなに優しく笑う女の子に、僕はいつか、本当のことが言えるのだろうか。  拒絶されるのが怖い。同情されるのが、もっと怖い。


 五月の風は、まだ少しだけ、焼け焦げたような匂いがした気がした。

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『好きな女の子に、僕はどうしても告白ができない。』 Juyou @gtoair2446890

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