『好きな女の子に、僕はどうしても告白ができない。』
Juyou
第一回:『五月の空は青すぎて、僕の喉はまだ熱い。』
午前五時。街が深い眠りから覚める前、僕の一日はキッチンの音から始まる。 トントントン、と規則正しく響く包丁の音。リズミカルに刻まれる野菜の感触だけが、僕がこの世界に存在していい理由を繋ぎ止めているような気がした。
「蓮、今日も早いのね。無理しなくていいのに」
背後からかけられた声に、肩が小さく跳ねる。振り返ると、まだ眠そうに目を擦りながら、姉の美岬が立っていた。
「……おはよう、姉さん。朝食、もうすぐできるから」
僕が短く答えると、姉さんは僕の頭を優しく撫でた。その手はいつも温かい。けれど、その温もりに触れるたび、僕の胸の奥にはちりりとした痛みが走る。 十年前、すべてを焼き尽くしたあの夜。両親と家を失い、泣くことさえ忘れた僕の手を引いてくれたのは、当時まだ学生だった姉さんだった。彼女は自分の青春を、僕という「重荷」のために差し出したのだ。
「姉さん、会社……外派(海外赴任)の話、また断ったの?」
ふと気になって尋ねると、姉さんは一瞬だけ動きを止め、それから何事もなかったように笑った。
「いいのよ。蓮を置いて遠くへなんて行けないわ」
その言葉が、熱い鉛のように僕の喉に詰まる。僕さえいなければ、姉さんはもっと自由になれたはずだ。僕は「お返し」のできない優しさに、いつも息苦しさを感じていた。
学校に着くと、五月の光は残酷なほどに眩しかった。 教室の隅の席に座り、気配を消して教科書を開く。僕にとってここは、嵐が過ぎ去るのを待つためのシェルターのような場所だ。誰とも目を合わせず、誰にも声をかけられないように、僕は透明な壁を築く。
「あーあ、最悪。お弁当、玄関に置いてきちゃった……」
斜め前の席で、星野陽葵(ほしの・ひまり)が机に突っ伏していた。 彼女の周りだけ、空気がキラキラと跳ねている。窓から差し込む光を反射する、少し茶色い髪。彼女は僕にとっての「太陽」だった。近寄れば焼かれてしまう。けれど、その光に焦がれて、僕は鞄の中にある予備の弁当箱を、指が白くなるほど強く握りしめた。
(渡すべきだ。今、困っているんだから)
頭の中で何度もシミュレーションを繰り返す。 「これ、良かったら食べて」。 たったそれだけの言葉が、どうしても喉から出てこない。言葉を紡ごうとすると、あの日の煙が喉を塞いでいるような錯覚に陥る。
昼休み。人気のない旧校舎の渡り廊下で、僕は陽葵を見つけた。彼女は一人でお腹を空かせたように、空を眺めていた。
「あの……星野さん」
脳内で練習した百回目の声は、自分でも驚くほど小さく、掠れていた。陽葵が驚いたように振り返る。
「え、秋山くん? どうしたの?」
僕は黙って、自分のために多めに作っておいた予備の弁当箱を差し出した。
「これ……姉さんの分だったんだけど、余ったから。良かったら、食べて」
嘘だ。姉さんの分ではなく、最初から彼女に渡そうと思って、今朝必死に詰めたものだ。陽葵は目を丸くした後、パッと顔を輝かせた。
「えっ、いいの!? 助かるー! 秋山くんって、実は神様なの?」
彼女は遠慮なく蓋を開け、中に入っていた出し巻き卵を一口で頬張った。
「……っ! おいしい! これ、秋山くんが作ったの? 優しい味がする」
陽葵が満面の笑みを向ける。その笑顔が、僕の心の奥にある凍りついた「何か」を少しだけ溶かしたような気がした。
「……あ、う……」
何か返事をしなきゃいけない。けれど、緊張で喉がキュッと締まる。 僕は結局、情けないことに顔を真っ赤にして、コクコクと頷くことしかできなかった。
五月の風が吹き抜け、彼女の髪から石鹸のような香りがした。 伝えたい言葉は、今日も心の奥に澱(おり)のように溜まっていく。 僕はまだ、好きな女の子に、おはようさえまともに言えないままだ。
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