第8話
安い民宿ではあるが、それなりに設備は整った部屋だった。
六畳間のリビングとは別に、ベッドだけの寝室がある。それから浴室トイレ。これでも十分なくらいだ。
「おいおい、そこで寝るなよ」
クロスケが一目散にベッドに上がったので、律佳は指摘する。
予定外の猫との同室。ベッドを取られてしまっては自分が休めない。
「腹が減ったなぁ」
尻尾でパタパタと布団を叩く我儘な猫へ、律佳は大きなため息をついた。
「……わかったよ。お前のご飯にするよ」
寝室を出てリビングへ戻り、クロスケのご飯の用意をする。
床へ新聞紙を敷くと、そこに皿を二つ置く。それぞれ水とキャットフードを入れた。
クロスケは、トコトコと足早に近寄ってくれば、水を飲み始める。律佳はその様子をじっと見つめた。
性格の割に上品な猫だ。皿からこぼれないよう、器用に食べ進めている。
律佳にとって問題なのは、クロスケが何者なのかだ。
人語を話す黒猫。それは自分だけが意思疎通できるのか、それともクロスケ自身が律佳にだけ話しかけているのか。
クロスケが特別な猫なのか、律佳が猫と話す能力を得たのか。
いずれにせよ、彼に問いただす必要がありそうだ。
「おい、その物言いたげな顔をやめろ」
キャットフードを食べていたクロスケがこちらに顔を向けてきた。
「文句のひとつ言いたくなるよ。勝手についてきて、俺に飯を出させて。お前の世話をしてやるつもりはないからな」
律佳はクロスケを持ち上げる。
「おいっ!やめろ!おろせ!!」
暴れるクロスケを抱いて、テーブルへと下す。
そうして腰に手をあて、彼を見下ろすのだ。
「そろそろ説明してもらおうか」
クロスケがこちらを見上げ、座り直した。
「説明?なにを小僧に話すっていうんだよ」
面倒くさそうに言うクロスケに、律佳は眉を寄せる。
「お前が何者で、どうして俺に着いてくるのかってこと」
クロスケは鼻を鳴らすと、「やれやれ」と後ろ足で耳を掻く。
「人間は何でも知りたがる。そんなに“知りたい”のか」
クロスケは頑なに律佳の話に耳を傾けようとしない。
(強情な猫だ)
律佳は咳払いをすると、腕を組んで言う。
「“知識欲”だよ。“知りたい”という人間の欲求。猫にはわからないだろうけどね」
皮肉を込めたが、猫の表情は変わりない。
「わからんな。オレたちが会話できているのは事実。それに“意味”を求めるのか。その先に見えるものはなんだ?知ってなにをしたいんだ」
律佳は手で顔を覆い、低く唸る。
会話がずっと平行線だ。これでは埒があかない。
目の前の猫は、ただの猫ではないことはわかった。そして、“ただ”の喋る猫でもないということ。
人間相手に理屈を捏ね、本筋から逸らそうとする屁理屈さがある。
こちらの意見を正論や理屈で跳ね除けるような大人に似ていた。
「……この話は後にしよう。俺は街へ出るから、お前は好きにしろよ」
これ以上、問いただしても無駄だろう。律佳は頭を冷やすことにした。
カメラを首から下げ、律佳は部屋を出ていく。
──アノシロス。
崖につくられた小さな村。細い路地と階段が続く。
そして観光客も見当たらず、とても静かなのだ。アテネでは地元民と観光客が入り混じり、活気に溢れていたが、ここでは真逆だ。
細い階段を上がっていく。玄関先に置かれた餌を食べている猫に、カメラを向けてシャッターをきった。この島も随分と猫が多い。歩いて五分もしないうちに出会う。
「ずっと景色と猫しか撮ってないじゃねぇか。小僧は猫探しに来たのか?」
律佳は長い息を吐く。塀の上を歩くクロスケを見上げた。
「部屋にいるんじゃなかったの」
クロスケを睨むが、この猫はそんな視線も気に留めていない様子だ。
「言ってないぞ」
そのたった一言でさえ、律佳を苛つかせるには十分だった。
「どうして、そう俺に構うんだよ」
「“構う”?いいや、勝手に着いてきているだけだ」
律佳はクロスケを置いて宿を出た──つもりだった。
どういうわけか、相変わらず自分に着いてくる。
着いてくるくせに、何も話す気がない。それが更に苛立たしい。
「いい加減にしろよ。さっきからずっと、何も答えやしない。人間を揶揄って楽しいか?」
一度言葉にしてしまえば、口は止まらない。
「お前が他の人間に人語で話してるを見たことがない。どうして俺にだけ話すんだ」
クロスケは律佳以外の人間とも接している。
けれど、この猫は普通の猫のように鳴いて甘えるだけで、人語を話さなかったのだ。
「俺は知りたいんだよ。お前が“ケット・シー”なのかどうか。それだけでいいんだ!」
しかしクロスケは黙っているだけ。律佳に答えてくれない。
(またダンマリかよ)
律佳は唇を噛みしめた。
「……もういい。お前に声をかけるんじゃなかった」
クロスケに背を向け、彼を置いてその場を立ち去る。
喋る黒猫は、もう律佳の後を追っては来なかった。
一人分の石畳を歩く靴音だけが、虚しく響く。
それから随分と高い場所まで来たようだ。シロス島とエーゲ海を一望できる。
律佳はその景色を見つめ、あの頃の夏を思い返していた。
小学生の夏休み。
祖父は決まって律佳へ、町に伝承されている神様の話や妖怪、妖精のことを話すのだ。
神様や妖怪、幽霊というのは、日本でも馴染みが深い。絵本でも妖怪や幽霊を題材にしたものだったり、子供向けアニメでも妖怪モチーフはある。
だが妖精というのは、小学生の律佳にとって真新しい概念だった。
だからこそ強く惹かれたのかもしれない。
『妖精は目に見えないだけで“いる”んだ。風や草むらに紛れてな』
そう、祖父は言った。
だから律佳は問いかけたのだ。
『じいちゃんは見たことある?』
すると、首を傾げて唸った。
『うーん、じいちゃんは──』
律佳はじっと祖父の言葉を待つ。
『ありませーん!』
祖父は手を広げて面白おかしく言う。
律佳はケラケラと笑った。
『えー?ないのー?』
『だけど、“いる”と思ってる。絶対にいる。この世界のどこかにな』
『どうして?』
聞けば祖父が優しく頭を撫でてくる。
『その方が面白いだろう』
それが祖父の答えだった。
だから律佳は“信じた”のだ。
「妖精はいる」のだと。
クラスメイトに笑われようが、大人になろうが、心のどこかでは信じたい。
“信じる心”を持ち続けたい。
ただそれだけの筈なのに──
「どうして、こうなったんだ……」
陽は西へ沈んでいく。シロス島に影を落としていった。
あの猫は何をしているのだろう。一匹でふらふらと街を歩いているのだろうか。
それとも、彼も自分と同じように、この景色を眺めているのだろうか。
たかが猫一匹に、こんなにも掻き乱されている自分が笑えてくる。
律佳は首にかけていたカメラを手にし、撮った画像を見ていく。
椅子に座って眠る茶色の猫。少年に餌をもらっている白猫。路地の階段の真ん中で、堂々と鎮座する黒斑の猫。数多くの猫がカメラに収められている。
そして──
開店前のカフェテラスのテーブルで眠る黒猫。
全てはここからだった。律佳が声をかけなければ、クロスケは喋ってはこなかったかもしれない。
ボタンを操作し、画面には『削除』の文字が表示される。その文字を暫く見つめた。
決定ボタンにかけた指は動かせないでいた。
「なんだよ」
躊躇う自分に苛つき、律佳は舌打ちをする。
眼前の景色に、今の心は似つかわしくない。この美しい景色さえもが自分を否定してきているような気がしてならなかった。
律佳は宿に向かって歩き出した。
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