第7話

港へ向かう細い路地。律佳の足元を、喋る黒猫はトコトコと歩いている。


「どうして着いてくるのさ」

「面白そうな予感の匂いがするからな」


 黒猫の声は弾んでいた。

 どういうわけか、勝手に着いてきているのだ。追い払う理由もないので、そのままにしているのだが。


(もしかして、自分にだけ猫の声が聞こえているんじゃ……)


 ギリシャに来て謎の能力でも開花したというのだろうか。

 考えているうちに、目的地の港へ着いてしまう。

 爽やかな風が潮の匂いを運んでくる。穏やかな美しい海には、一艘のフェリーが停まっていた。

 観光客と地元民たちがフェリーに吸い込まれるようにして、中へ入っていく。律佳もそれに習って続こうとした。

 足元へ視線を落とせば、黒猫はピッタリと自分の傍にいるのだ。一緒にフェリーに乗るつもりなのだろうか。


「駄目だよ。島に行くんだよ?」

「いいんだ。着いていくぜ、小僧」

「無賃乗船だ……」


 猫に乗船料金などないが、律佳は小さくため息をついた。

 

 

 フェリーの中では、猫がいても誰も咎めない。それどころか、他の乗客に構われているのだ。


「なんだ、あの猫は」


 律佳は甲板からエーゲ海を眺めていた。

 アテネはもう遠く、眼前に広がるのは美しい広大な海。そして真っ青な空。潮風が香り、心地よい。

 おもむろに祖父の写真をポケットから取り出して眺めた。祖父と共に写る猫は、やはりあの黒猫と酷似していると思う。

 そしてどういうわけか、自分にはあの猫の言葉が理解できる。意思疎通までしているのだ。これを摩訶不思議と言わないでなんというか。


「感傷に浸っているのか、若造が」


 猫が甲板の手すりに飛び上がってきた。風に吹かれて柔らかな毛並みがなびいている。


「まだ着いてくるんだ」


 律佳は写真の中の猫と、目の前の猫を見比べた。


「なんだよ」


 怪訝そうな猫の声が返ってくる。

 手にしていた写真を猫へ見せた。


「これ、もしかして君だったりしない?」


 猫はお喋りな口を閉じると、黙って写真を見つめた。


「この人、俺のじいちゃんなんだよね」


 すると猫は目を細める。


「……知らないな。猫なんて数えられないほどいるだろ」

「俺が知る限り、喋る猫は君しかいないよ」

「世界が狭いんだな。小僧は」


 写真の猫と、この猫が同一猫だとすると、五十年以上は生きていることになる。

 普通の猫ではありえないが、この猫が“普通”ではないとすれば──


「ケット・シーって知ってる?人の言葉を喋って、二本足で歩く猫の妖精なんだ」

「オレは二本足で歩いたりしねぇよ」

「そうみたいだね」


 律佳は写真を下げた。

 写真裏の『一九七六年ギリシャ クロスケ』と書かれた文字を見つめる。


「……君、名前はあるの?」

「好きに呼べばいい。いつの時代も、色んな名前で呼ばれてきた」

「そうか──」


 律佳は猫に目を向け、優しく微笑んだ。


「よろしくね、クロスケ」


 名付ければ、彼は鼻を鳴らして視線を逸らす。細い髭がヒクヒクと動いている。


「センスのない名前だな」


 律佳は肩を揺らして笑った。

 


 次の目的地であるシロス島まではフェリーで約三時間。

 船内のカフェで購入したピタパンとコーヒーを手に、デッキで軽食を摂っていた。テーブルのカフェスペースで時間を過ごしている。

 クロスケはというと、律佳が座るテーブルに寝転がっていた。たまに通りかかった人に構われ、甘えた声で鳴いては愛想を振り撒いている。

 律佳はその様子を冷めた目で見ていたのだ。


「この国の人は、猫を甘やかしすぎだよ」


 つい口を滑らせれば、クロスケは長い尻尾をゆらゆらと揺らし、鼻を動かした。


「ニホンジンも同じだろ?」

「なんで日本人だってわかるんだよ。俺の国籍は教えてないだろ」


 するとクロスケは口を閉じ、律佳が食べているピタパンを嗅いでくる。


「あげないよ。食べれないでしょ」

「……なにも言ってないぞ」


 クロスケは不貞腐れた様子で、体を丸めて目を閉じた。


(拗ねるのかよ)


 猫は喋れても、自由気ままで気分屋なようだ。

 律佳は祖父の日記を取り出して広げる。

 父から貰ってから今日まで、何度も読み返している。

 そして──

『約束の地 ここで』

 このページの意味だけが、わからないままだ。

 祖父は猫を飼っていたわけではないが、野良猫や近所の飼い猫に対し、犬と話すかのように喋りかけていたのを思い出した。

 もしかすると、祖父は喋る猫を探していたのではないのだろうか。

 眠るクロスケに視線を向ければ、小さく寝息を立てている。律佳は柔らかな笑みを浮かべながら、その背中を優しく撫でた。

 フェリーの先には、シロス島が見えてきている。

 


──シロス島。

 アテネの南東に位置する島。アテネと比べると落ち着いた印象だ。

 律佳は降りた港で、大きく息を吸って深呼吸する。日本とは違う空気を味わった。日本の都会の喧騒と比べれば、ここはとても静かだ。


「さて、どこへ行くんだ」


 そんな声が足元から聞こえてくる。


「宿だよ、宿」


 クロスケに視線を向けることなく、律佳は歩き出した。

 

 街中へ入り、予約していた民宿へ向かう。スマホの画面と睨めっこしながら探すのだ。

 これには骨が折れた。似た外壁の家々が建ち並ぶ場所では、どれが宿で、どこが玄関かわからなかった。

 やっとのことで目的の民宿に辿り着き、宿主の女性が律佳を迎え入れてくれる。おおらかで可愛らしいおばさんだった。

 宿泊手続きの話をしていると、不意に宿主が律佳の足元へ視線を下ろし、クロスケを指差した。


「あなたの猫?」


 そう聞かれたので、律佳は首を横に振る。


「アテネから着いてきたんです。俺の飼い猫じゃなくて」


 流石に断られるだろうか。

 そう思っていると──


「気に入られたんだね。一緒に泊まって行きなよ」


 クロスケは歓迎され、「ちょっと、待ってて」と女性は部屋の奥へと消えてしまう。

 再び女性が律佳の前に姿を見せれば、何かが入ったポリ袋を持たされる。ずっしりと重い。

 袋を覗けば、猫缶とキャットフードと水、それを入れるための容器が入っている。


「その猫ちゃんにね」


 と女性は笑顔を見せた。


(常備してるの?)


 心の中でツッコミながらも、律佳はありがたく受け取ることにした。

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