第9話
宿へ帰ってきたが、当然クロスケの姿はない。
もしかしたら、と期待していた自分がいた。そんな自分へ溜め息をこぼす。
重い足取りで寝室へ行くと、ベッドに倒れ込んだ。律佳の重みでマットレスが軋む。
ふと、腹の虫が大きく鳴った。
こんな状況でも腹は空くらしい。出かける気力さえなく、律佳はベッドから起き上がれば、旅行バッグを漁る。
そこからインスタントのカップうどんを取り出した。備え付けの電気ケトルで湯を沸かす。
「ギリシャに来てまでカップ麺かよ」
独りごつも、誰かの声が返ってくるわけではない。
沸かしたお湯をカップに注ぎ、三分待って割り箸で食べる。白い湯気と出汁の香り。嗅ぎ慣れた匂いが食欲をそそる。
だが、温かなうどんを食べていても、心までは満たされなかった。
日本の一人暮らしでは、こんな食事でも美味しいと思えたのに。時計の針だけが聞こえる静かな部屋で、律佳は黙々と麺を啜った。
◇
律佳は腹部に重みを感じた。大きな付加がかかっているような感覚。息苦しいけれど──温かい。
まだ眠っていたかったが、耐え兼ねて瞼を持ち上げた。
(……?)
黒い塊が見える。寝ぼけた意識が鮮明になってくれば、それがナニか輪郭がハッキリとしてくるのだ。
腹部の上で体を丸め鎮座するそれに、律佳は大きな溜息をつく。
「おい、降りろよクロスケ」
耳がピクリと動けば、瞼が開かれグリーンの瞳を覗かせる。クロスケの瞳を目が合い、律佳は上半身を起こす。クロスケはやっと体から降り、ベッド脇に座ればこちらを見上げているのだ。
律佳は携帯端末で時間を確認すればまだ朝の五時前。
「なんだよ……もう少し寝かせてくれよ」
掛け布団を引っ張ると、再び布団へ潜り込んで目を閉じた。
「小僧の知りたいこと。教えてやろうと来てやったんだぞ」
偉そうな物言いだなと思いながら、聞かないふりをして目を閉じ続けた。
クロスケが動く様子もなく、静かな沈黙が漂う。
何分過ぎただろ。律佳にとっては十分以上も時間が経っていたように思えた。
「……テツロウは、元気か」
クロスケの口から名を聞いた瞬間に布団の中で目を見開いた。
掛け布団を退かしてクロスケを見下ろす。
「やっぱり、お前がクロスケなんだ」
こちらを見つめるグリーンの瞳は微かに揺れる。
「まだ生きてるみてぇだな」
視線を逸らし、布団の上で拳を握った。
「今は老人ホームにいるんだ」
「老人の家……?」
猫にはわからないらしい。
「えっと……一緒に暮らしてないんだ。同じ年代の人たちが集まる施設で暮らしていて」
ちらとクロスケへ視線を向ければ、まんまるな目をして髭をヒクヒクと動かしている。
「ああ、わかったぞ。人間のジジやババが世話してもらってる宿だな」
概ね正解だろう。律佳は否定せず頷く。
「あいつも歳を食ったか。孫がいるんだからな」
クロスケの声は柔らかい。目を細め、友人の安否に安堵しているように思える。
その瞳の奥に映るのは律佳ではなく、あの頃の祖父だろう。
「今日はどこへ行くんだ小僧」
「……アテネに戻る。そこで一泊して、翌朝に空港から日本に帰るよ」
クロスケを問い詰めないのは、もう聞くこともないと思ったから。
やはりクロスケは祖父と会っていた。あの写真に写る猫は目の前にいる猫と同じで、その頃と変わらない姿をしているのだ。
本来の猫の寿命を考えるとあり得ないことだが、人間の言葉を喋る時点でおかしいのだ。今更、何十年と生きていようが驚きやしない。
もう一度布団に潜り込んだ。船の出航までに時間はある。早朝に起こされたので二度寝したい。
ふいに重みでベッドが軋み、掛け布団を四脚が踏みつけていく。こちらを呼ぶような鳴き声がするも、律佳は布団から顔を出さなかった。
「じいちゃんはクロスケのことも忘れてるよ。自分がギリシャに来たことも覚えてないんだ」
「……そうか」
腹の近くから布団がもぞもぞと動き、黒い頭が布団の中へ入ってくる。柔軟な体をするりと隙間から滑り込ませてきたのだ。そうして律佳の腕の中に収まるようにして頭を突っ込んでくる。
「オレも寝る」とクロスケは目を閉じた。
腕に重みを感じながら溜息をつく。けれどその重みが少しばかり心地よくて、柔らかな毛に顔を埋めるように律佳も目を閉じるのだった。
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