第9話


 宿へ帰ってきたが、当然クロスケの姿はない。

 もしかしたら、と期待していた自分がいた。そんな自分へ溜め息をこぼす。

 重い足取りで寝室へ行くと、ベッドに倒れ込んだ。律佳の重みでマットレスが軋む。

 ふと、腹の虫が大きく鳴った。

 こんな状況でも腹は空くらしい。出かける気力さえなく、律佳はベッドから起き上がれば、旅行バッグを漁る。

 そこからインスタントのカップうどんを取り出した。備え付けの電気ケトルで湯を沸かす。


「ギリシャに来てまでカップ麺かよ」


 独りごつも、誰かの声が返ってくるわけではない。

 沸かしたお湯をカップに注ぎ、三分待って割り箸で食べる。白い湯気と出汁の香り。嗅ぎ慣れた匂いが食欲をそそる。

 だが、温かなうどんを食べていても、心までは満たされなかった。

 日本の一人暮らしでは、こんな食事でも美味しいと思えたのに。時計の針だけが聞こえる静かな部屋で、律佳は黙々と麺を啜った。



律佳は腹部に重みを感じた。大きな付加がかかっているような感覚。息苦しいけれど──温かい。

 まだ眠っていたかったが、耐え兼ねて瞼を持ち上げた。


 (……?)


 黒い塊が見える。寝ぼけた意識が鮮明になってくれば、それがナニか輪郭がハッキリとしてくるのだ。

 腹部の上で体を丸め鎮座するそれに、律佳は大きな溜息をつく。


 「おい、降りろよクロスケ」


 耳がピクリと動けば、瞼が開かれグリーンの瞳を覗かせる。クロスケの瞳を目が合い、律佳は上半身を起こす。クロスケはやっと体から降り、ベッド脇に座ればこちらを見上げているのだ。

 律佳は携帯端末で時間を確認すればまだ朝の五時前。


 「なんだよ……もう少し寝かせてくれよ」


 掛け布団を引っ張ると、再び布団へ潜り込んで目を閉じた。


 「小僧の知りたいこと。教えてやろうと来てやったんだぞ」


 偉そうな物言いだなと思いながら、聞かないふりをして目を閉じ続けた。

 クロスケが動く様子もなく、静かな沈黙が漂う。

 


 何分過ぎただろ。律佳にとっては十分以上も時間が経っていたように思えた。


 「……テツロウは、元気か」


 クロスケの口から名を聞いた瞬間に布団の中で目を見開いた。

 掛け布団を退かしてクロスケを見下ろす。


 「やっぱり、お前がクロスケなんだ」


 こちらを見つめるグリーンの瞳は微かに揺れる。


 「まだ生きてるみてぇだな」


 視線を逸らし、布団の上で拳を握った。


 「今は老人ホームにいるんだ」

 「老人の家……?」


 猫にはわからないらしい。


 「えっと……一緒に暮らしてないんだ。同じ年代の人たちが集まる施設で暮らしていて」


 ちらとクロスケへ視線を向ければ、まんまるな目をして髭をヒクヒクと動かしている。


 「ああ、わかったぞ。人間のジジやババが世話してもらってる宿だな」


 概ね正解だろう。律佳は否定せず頷く。


 「あいつも歳を食ったか。孫がいるんだからな」


 クロスケの声は柔らかい。目を細め、友人の安否に安堵しているように思える。

 その瞳の奥に映るのは律佳ではなく、あの頃の祖父だろう。


 「今日はどこへ行くんだ小僧」

 「……アテネに戻る。そこで一泊して、翌朝に空港から日本に帰るよ」


 クロスケを問い詰めないのは、もう聞くこともないと思ったから。

 やはりクロスケは祖父と会っていた。あの写真に写る猫は目の前にいる猫と同じで、その頃と変わらない姿をしているのだ。

 本来の猫の寿命を考えるとあり得ないことだが、人間の言葉を喋る時点でおかしいのだ。今更、何十年と生きていようが驚きやしない。

 もう一度布団に潜り込んだ。船の出航までに時間はある。早朝に起こされたので二度寝したい。

 ふいに重みでベッドが軋み、掛け布団を四脚が踏みつけていく。こちらを呼ぶような鳴き声がするも、律佳は布団から顔を出さなかった。


 「じいちゃんはクロスケのことも忘れてるよ。自分がギリシャに来たことも覚えてないんだ」

 「……そうか」


 腹の近くから布団がもぞもぞと動き、黒い頭が布団の中へ入ってくる。柔軟な体をするりと隙間から滑り込ませてきたのだ。そうして律佳の腕の中に収まるようにして頭を突っ込んでくる。

 「オレも寝る」とクロスケは目を閉じた。

 腕に重みを感じながら溜息をつく。けれどその重みが少しばかり心地よくて、柔らかな毛に顔を埋めるように律佳も目を閉じるのだった。

 

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