第6話
アテネの夜。ホテルから眺める夜景はとても美しかった。柔らかな明かりが街に灯り、街並みの向こうには静かな夜の海が見えている。
律佳はその景色を眺めながら、物思いに耽っていた。
あれは小学生の夏休み。その日も秘密基地で遊んでいた。拾った小石を集めた瓶を並べ、林の中に落ちていたガラクタを宝物のように箱へ仕舞う。
そして律佳は見たのだ。生い茂った草むらに、淡い光が漂っていたのを。それは確かに人の形をしていた。
それだけではない。秘密基地にいると、“誰かに見られている”気がする。しかし、恐怖は感じない。不思議と安心する感覚を覚えていた。
だから律佳はそれを「妖精」だと確信した。
「じいちゃんが言っていたのは本当だった。妖精はいるんだ」と。
夏休み明けにクラスメイトへ自慢げに言ってやった。
「俺は妖精を見た。じいちゃんの町で見たんだ」
するとどうだろう。クラスメイトから冷ややかな視線を浴びる。
『妖精なんて、いるわけねーだろ』
『こいつ、嘘つきだ』
『妖精じゃなくて、幽霊だったんじゃね?』
初めて受けた強烈な否定。
自分だけではなく、祖父のことまで否定された気がした。悲しくて、悔しくて。でも証明のしようがなくて。
「じいちゃんは、妖精がいるって言ってた」
と言っても、クラスメイトたちは律佳を笑う。それはサンタクロースを信じてるようなものだと。
中学生になれば祖父母の家には行かなくなった。友達とカラオケに行ったり、ボウリングしたりする方が楽しかったのだ。
自然と触れ合う機会もなくなり、置き去りにされた秘密基地の存在も薄れていく。
次第に、あの時に見た“光”が、夢だったのか現実だったのかも記憶が曖昧になってきた。
それなのに、大学では民俗学を専攻し、こうして妖精を求めてギリシャまで訪れている。自分のためなのか、祖父のためなのか。律佳にはわからない。
祖父の手帳には『現地の美味いビールを飲んだ』と書いてあった。その体験をなぞるように、缶ビールを開けて口をつける。
「……不味っ」
頭を項垂れ、口に合わない酒に酔う。
熱くなった目頭を指で押さえた。
妖精の話を嬉々として話してくれた祖父の面影は今ではなく。孫の名前も顔もわからないほどになっており、自分がギリシャへ来たことさえ覚えていない。異国の地に来てまで祖父の影を探している自分が滑稽に感じる。
これは一人でギリシャに来たから心細くなっているだけなのだと自分に言い聞かせた。
律佳は静かな夜を過ごすのだった。
◇
翌朝。早朝から動き出す。
ホテルのロビーに寝転がる猫と戯れ、ホテルを発った。
律佳は祖父の手帳を開く。
『九月十四日
ホテルからピレウス港へ。シロス島へと向かう。
太平洋とは違い、とても青くて美しい海。エーゲ海という。
ここにも猫がいる。日本では乗せないだろう。
だが、船員はパンくずをやっていた。
タダ乗りでタダ飯とは、人間と違って猫は良い扱いだ。
五時間かけてシロス島に到着。
船酔いした。
港にも猫が多い。釣り人が猫に魚をやっていた。
この島は静かだ。
なにもない。』
律佳はピレウス港へ向かっていた。次の目的地は『シロス島』だ。
道中の脇道には、猫用の水受け皿やクッション、段ボールにタオルが入れられた簡易的な寝床まで用意されている。待遇が良すぎないか?
塀の上に高箱座りしていた猫へ近寄る。こちらに気がついているのに逃げもしない。尻尾を揺らしながら「なにか用か?」と言いたげだ。
カメラを構えて写真に納める。
「お前は、喋るのかな?」
返事はない。当然だろう。猫は目を細めて黙っている。
それから歩いていると、開店前のテラスカフェのテーブルに、一匹の黒猫が眠っているのが見えた。
不思議と律佳の足は、その猫へと向いていく。
整った綺麗な毛並みに、白い右足。律佳はおもむろにカメラに収めた。
そして既視感があるその見た目を、じっと見つめるのだ。
「もしかして……」
リュックのサイドポケットから、祖父の手帳を取り出した。そこから例の写真を抜き取る。
目の前の猫と、写真に写る猫と照らし合わせてみた。
「……似てる」
体格、白い右足、毛並み──どこをとっても似ている。
思わぬ偶然だ。もしかすると、祖父が出会った猫の血をひいているのかもしれないと思った。
「ヤーサス。君は喋ったりする?」
黒猫の耳がピクピクと動く。
「おーい、起きてる?」
猫の瞼が持ち上がれば、鮮やかなグリーンの瞳がのぞく。
(綺麗な猫だ)
そして猫は起き上がると、前足を押し出し、ぐっと伸びをした。
「おはよう。よく眠れた?」
猫は欠伸をすると、こちらをジッと見つめてくる。
「うるさい小僧だな」
「……え?」
静かな空間に、誰かの一言だけが響いた。
律佳は辺りを見渡すも、人の気配はない。
「どこを見ている。こっちだ」
律佳の手は震え、黒猫へ視線を向ける。背筋を伸ばしてテーブルに座っている、そのグリーンの瞳と目が合う。
「猫が、喋った……?」
「喋れと言ったのは、お前だろう」
目の前のことに頭が付いていかず、体が硬直する。
声は確かに猫から聞こえた──いや、そんなはずはない。
律佳が言葉を失って呆然としていると、猫はテーブルから飛び降り、石畳へ着地する。
「どうした。いつまで突っ立っているんだ」
声は足元から聞こえてくる。
「いやいや……夢か、そうだ夢なんだ。それか疲れてるんだ」
律佳は頭を抱えた。現実にありえるのか?
「おかしな小僧だな。自分から話しかけておいて、こちらが喋れば驚くのか」
「やっぱり、喋ってる!!」
「騒がしいな……」
混乱する青年をよそに、猫は呆れていた。
「なにが、どうなって──」
「おい、食いものは持ってないのか?」
「も、持ってません……」
すると猫は舌打ちする。
「チッ、気の利かない小僧め」
(口、悪っ?!)
可愛らしい外見とは裏腹に、黒猫は人間に毒を吐いてくる。
(悪い夢なら覚めてほしい)
律佳は顔が真っ青になった。
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